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『「自分の子供が殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』
森 達也 ダイヤモンド社
私は、森達也という人の姿勢を信じている。この人の言うことすべてに賛成するわけではないが、彼が誠実に真正直にまじめに問題と取り組み、よく考えて、自分の内部からしっかりと答えを導き出すというやり方に共感する。そのやり方は、かっこわるかったり、危なっかしかったり、時に危険であったりもするが、それでも実直に地道に貫き通すそのやり方に、心からの敬意を評したい。
本の題名は結構挑発的だが、雑誌の記事をまとめたものなので、字数が制限されて掘り下げが足りず、説得力が足りない部分もある。あるが、何を言いたいか、私はわかるよ、とも思う。これは贔屓の引き倒しなのかもしれないが。
「忖度」とか「空気を読む」ということに、彼は危機感を抱いている。私もそこに強く共感する。
授業を終えてから彼のもとに質問に来た学生に、なぜ、授業中に質問しないのだ、と尋ねたら、だって誰も質問しないのだもの、空気を読んだんです、と答えられた。そんな学生がした質問は、なぜ、誰も初期の頃、原発に反対しなかったのか、というものだ。
このエピソードは本当のものか、アイロニカルな彼の創作なのかはわからない。だが、原発がどんなものであるかもわからない時期にいきなり中曽根氏が予算を提案した時、誰もが空気を読み、周囲の意見を忖度して誰も反対しなかったという状況は容易に想像できるではないか。質問した彼の姿こそが、答えになっている。そこに少し笑ってしまった。
「忖度」ということについては、ナチスドイツのユダヤ人ホロコースト最高責任者だったアイヒマンのエピソードが書かれている。
いずれにせよアイヒマンは、ユダヤ人問題については意思決定に加わった最高幹部の一人であり、その強制収容所への護送については最高責任者となっている。でも法廷では「自分の意思ではなかった」と発言する。おそらくは本音なのだと僕は思う。特にホロコーストについては、明確な監督官庁や指示系統は存在していなかった。もしミュラーやハイドリヒやヒムラーにおなじ質問をしたとしても、きっと彼らもアイヒマンと同じように、自分の意思ではなかったと答えるだろう。意図や指示や命令をアイヒマン(を含む多くの幹部たち)は過剰に忖度し、その帰結として、五百万人のユダヤ人が犠牲となった。
中心には誰もいない。いないからこそ暴走する。
(引用は『「自分の子供が殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』より)
2014/2/3