ある手芸中毒者の告白

ある手芸中毒者の告白

32 グレゴリ青山 誠文堂新光社

新刊が出たら即買いのグレゴリ青山である。田舎暮らしをしたり、養蜂をしたり、畑仕事をしたり、博物館の裏側を紹介したり、そもそもは旅の漫画を描いていた人なのだが、今回は手芸である。多趣味というか、担当分野が広いというか。でも、どれもその気持ちがよくわかる。そんな人である。

彼女は、仕事をしなければならないのに、はっと気が付くとちくちくと刺繍をしていたり、端切れを眺めて今度は何を作ろうかと画策していたりしている自分に気づく。既に部屋は布地、端切れであふれているのに、東寺の「弘法さん」と呼ばれる市に行って、さらに古い着物や帯を買い集めてしまったりする。

チェーンステッチ一つ覚えただけで、どんな文様も描ける。糸は色だけでなく、素材もいろいろあるし、刺す布を替えたらまた表情が変わっていく。ステッチを習いながら「もしかして、今、無限を手に入れた?」と彼女は思う。こうして手芸中毒者は深みにはまっていく。

かつて私も手芸をしていた。編み物をしていると無心になれて、どんな悩みや心配事からも解き放たれる瞬間があった。自分の着古した服を子ども服に縫い直すと、世界に一着だけのオリジナルが出来た。好きな素材で好きな形に作り、それを大事な人に着てもらえる幸せ。手仕事にはまる気持ちはものすごくよくわかる。

だが、その一方で、愕然とすることがある。ものすごく手の込んだ、たくさんのパーツを縫い合わせた服や布製品が、驚くほど安く売られている現実がある。その昔100円均一の店ができ始めた頃、私は「こんなの間違ってるんじゃないか」と思ったことを覚えているし、ファストファッションの店であまりに安く服が買えるので「本当にそれでいいのか」と疑問に思ったことも覚えている。作者も同じことを考え、調べ、安い製品が開発途上国の女性たちの極めて安価な人件費に支えられていることに突き当たる。私も「大量廃棄社会」という本で、その現実を教えられた。手芸をすると、ひとつの作品を作り上げるのにどれだけの手間や労力が必要かがよくわかる。だから、あまりにも安価な布製品に出会うと茫然としてしまう。

作者は「平和祈念展」に展示されていた子ども用ワンピースにも衝撃を受ける。様々な布をつぎはぎして作られたその服は、栄養失調で亡くなってしまった下の子のおしめで作られた。その子の母親は、日本に引き上げる時に子どもに少しでもきれいな服を着せたいと願って、手縫いでそれを縫いあげたのだ。使い古しのおしめの布で作られたというのに、そのデザインは愛らしく、センスの良い美しいものであった。手仕事の手芸の価値って何なんだろう…と作者はつくづくと考えたという。

実は、この展示を私も自分の地元で見ている。「平和祈念展」は全国を巡回しているのだ。このワンピースは確かに愛らしいものであった。また、シベリアで飢えに苦しんで食べ物と引き換えに袖を切り離した外套の展示にも衝撃を受けた。袖を失ってパンを得たこの人は、その後の寒さをどうしのいだのだろう。パンを渡して袖を貰った人は、それで寒さが少しは和らいだのだろうか。その他にも、手仕事で作られた食器やマージャンパイなど、手芸、手仕事が極限状態で人をどう支えたか、考えずにいられない展示が多種並んでいた。

あとがきにはコロナ禍のマスク不足の話が載っている。私もマスクが足りないと困っていた当時、手芸好きの友人が手作りの布マスクをいくつも送ってくれた。それにどれだけ助けられたかわからない。

手仕事は、人を助け、人の心を温める。それがお金になろうがなるまいが、手芸や手仕事には代えがたい価値がある。もう子どもに服を縫ったり、セーターを編んだりはしなくなった私であるが、手芸にはまるグレゴリ青山の気持ちはすごくよくわかったし、そうやって誰かのために何かを作り続ける人の尊さを改めて感じたのであった。