75 津村記久子 新潮社
「水車小屋のネネ」の津村記久子である。すごく信頼できる、読んだらきっと面白い作家だ。
11篇の短編小説が収録された本。とても短いのもあるが、どれもどこかでぐっと心をつかまれるような作品ばかりである。ただ、ふと思うのだが、なんでこんなちまちましたことにこだわるのかなーと読みながら思うような人もいるのかもしれない。本当に些細な、どうでもいいようなことが心にひっかかって、どんどん体に広がってどこに持っていったらわからないような気持ち。見落としてしまいそうな小さなとげ。そういったものを丁寧に拾い上げてしげしげと観察して、こんなものがあったんだよなあ、これ、どうしたらいいんだろう、どこにどうやって捨てたらいいのかなあと考えてみるような小説だ。
そんなの気にしなければいいじゃん、と言われそうなこと。でも、どうしたら気にせずにいられなくなるのかよくわからないこと。そういうものが、いつのまにかするっとどこかへ消えていく道筋。なんで今まであんなにあれが重かったんだろう、とあとから思うのだけど、そのときは確かに重くて辛くて気になって仕方なかったこと。そういうものをすくい取るのが、津村さんはなんと上手なんだろう。
うそをつくのってけっこう大変だ。うそをつく後ろめたさもあるし、ついたうそはちゃんと覚えておかないと後でつじつまが合わなくなる。そもそもうそは人をだますことだし。「うそコンシェルジュ」は、決してうそをつくのが上手なわけじゃないけど、なんとか言い訳を考える手伝いを、はからずもしてしまう女性が主人公だ。うそを教えてほしいという人に、どううそをついたらいいかを、それこそものすごく真剣に考えてあげて、それを実行する手伝いもして、でもどこかで「責任を取って」本当のことを言ってしまったり、突然するっと解決してしまったりもする。せめてうそついてほしいのに、本当のことを言われて傷つくことだってある。うそって大変だし、罪深いよな、と思う。
私はうそつきの子どもだったと思う。その場を丸く収めるようなうそをよく言った。思えば母はそういう人だった。相手が気分良くなるようなことを選んで話すのがマナーだと思い込んでいたし、それはうそなんかじゃない、ただそのほうが相手が気分がいいだろうと思うだけだ、と自分でも言っていた。そういうものだと私は見て覚えたのだと思う。でもその場限りのうそはあとでつじつまが合わなくなってばれることが多かったし、そうするともっと気まずいし、それに、相手に合わせてうそをつき続けると本当の自分がわからなくもなった。それが嫌で、ある時から私はうそをつくまいと自分で決めた。本当の自分の気持ちを口に出して、それで怒るような人はそもそも私を嫌いになる人なのだから仕方ない。本当のことを言って嫌われたら、その人とはもともと合わない人なのだからしょうがない。そう決めたら、生きるのが楽になった。後ろめたい思いも消えてなくなった。でも、母はずっと相手の気分のために生きてたなあ。だから、母がどんなに私の新しい服をほめてくれても、本当にそれを良いと思っているわけではないだろうと私は思うしかなかった。そういう関係性って、結構悲しいんだけどな。(なんてことを母が亡くなって四カ月、まだそう思う程度に私は母を忘れてないんだと自己確認したりしている。)
うそコンシェルジュは嘘をつくデメリットや辛さもちゃんと見極めていて、だから、結局のところあんまりうそじゃなくなる話が多い。それが気持ちいい。正直に生きる心地よさを結局は教えてくれるように思う。どうでもいいこと、些細なことでも自分自身であり続けること、正直であることを大事にする姿勢がずっと貫かれている。だから、私は津村さんが好きだ。津村さんの小説が気持ちいい。