136 小川洋子 文芸春秋
「文藝春秋」に2020年9月から21年12月まで連載したエッセイ。外野手の肩、ミュージカル俳優の声、棋士の中指、ゴリラの背中、バレリーナの爪先、卓球選手の視線、フィギュアスケーターの首、ハダカデバネズミの皮膚、力士のふくらはぎ、シロナガスクジラの骨、文楽人形遣いの腕、ボート選手の太もも、ハードル選手の足の裏、レース編みをする人の指先、カタツムリの殻、赤ん坊の握りこぶし。一枚の写真をもとに、様々なことが語られる。
小川洋子は妄想の人である。他の人が気にも留めないような些細な出来事や物から出発して、彼女にしか作れない独特の世界を広げる。それがもう、他の誰にも見えないような不思議な世界になって行く。物語だけではない。現実に即したエッセイなのに、誰かの、あるいは何かの身体の一部から、こんなにも妄想は広がる。エッセイが終わっても、まだその世界はそこにあって、読み手をとらえ続けている。一説を読んだあと、しばらくその中に浸って、そして、よし、ここから出るぞと心を決めてからでないと、次へ行けない。
白内障の手術を終えたばかりの私は、病室のベッドで片目にべったりとガーゼを貼り付けたまま、うっとりとバレリーナの爪先の孤独を思い、シロナガスクジラの骨の謙虚さに心を震わせることができた。
本を読むってすごい。
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