135 西川美和 新潮社
西川美和を信じている。本も、映画も、彼女の作ったものなら信用できる。私は、そう固く信じている。
この本は、西川美和の叔父の物語である。広島出身の叔父は、終戦までの三か月間、陸軍特殊情報部の通信兵であった。彼は、2010年に、終戦前三か月間の体験を文章にまとめ、親戚に配った。実に淡々とした簡素な手記であったという。
広島に生まれ育った西川美和は、物心ついたころから戦争や原爆にまつわるとてつもなく悲惨な情景や体験に話を聞かされて育った。どうしてこんな嫌な話、悲しい話を聞きながら育たなければならないのだろうと思っていたという。
そういえば、私の父は予科練飛行兵だったし母は東京で空襲を経験した。私も戦禍の物語を両親に聞かされながら育った。ただ私は、それらの話は知らなければならないものだと思っていたし、自分でも戦争中の物語を率先して読んだものだった。当時はまだ子ども向けに戦争や原爆にまつわる本がたくさん出版されていたのだ。
悲惨な話を聞きなれていた西川美和は、叔父の淡々とした手記を不思議に思いながらも、むしろ幾分ほっとするようなところがあったという。その隙間にあるであろう何らかの感情の動きを知りたいと思って叔父に直接話を聞いても、感情的な言葉や一片の感傷も出てこなかったという。
叔父の手記をもとに西川美和がこの物語を書いたのは2011年のことである。広島の実家にいた彼女は、ある日、東京に電話をしてもつながらないことに気が付く。ふとテレビをつけてみると、大地震とそれに伴う大惨状が映し出されていた。世界が音もなく崩壊しようとしているようなすさまじい映像のテレビを消すと、そこにはいつもと何も変わらないような日常があった。終戦の夏、叔父が見ていたのもこんな静けさではなかったか、と彼女は思った。
叔父は、通信兵という立場にあって他の人たちよりも少し前に終戦の事実を知った。そして、一日早く任務を解かれた。翌日、故郷に向かう列車の中で、線路沿いにある駐在所に集まって終戦の詔勅を聞く人々の姿を見た。それは本当に淡々とした日常であった。
戦争というものの一端がこの短い物語には描かれている。日常がごく当たり前に流れているからこそ、戦争もまた、その日常の中に当たり前の顔をして入り込んでくる。そんなことを、ふと思った。
