97 内田樹 マガジンハウス
あちこちの媒体に書いた文章を編集して一冊にまとめた本。だから本としての一貫性には欠けるが、書いてある内容については、そうだよなあと頷くものが多い。多いが、じゃあどうしたらいいのだろうと考えると、どんどん悲観的、絶望的な気持ちになってしまう。私の人生は、せいぜいがあと二十年かそこらだろうからまだ何とかなるだろうが、これからを生きる子どもたちはつらいよなあ。でも、太古の昔からそのような悲観論は繰り返し言われ続けてきたのだ、とか、でも現実に恐ろしい戦争や恐慌は起きてきたよなあ、とか、いろんなことをぐるぐる考えてしまう。
日本の組織においては、上司は部下を「管理」することがあらゆる業務に優先する。なぜ仕事がうまくいかないかというと管理が足りないからだと考える。𠮟り方が足りない、屈辱感の与え方が足りない、と考え、さらに管理を強化し、組織を上意下達的なものにし、査定を厳格にし、成果を出せないものへの処罰を過酷化する。そして、もちろんその結果、組織のパフォーマンスはさらに低下し続ける。
高齢化の唯一の解決策は高齢者の集団自決だと提言した若い学者がいた。似たようなロジックでかつてナチスドイツは「ユダヤ人問題の最終的解決」を図った。だが、いくらユダヤ人を犠牲にしてもドイツの国運は向上せず、なので、世界の指導者は全員ユダヤ政府の走狗だと言って「ユダヤ=悪」の概念を拡大解釈し、さらに事態は悪化した。最後は、政権の中枢にユダヤのエージェントがいて政策を失敗に導いていると言い出し、ナチスドイツは亡びた。それと同じように、高齢者=悪の解釈もいずれ拡大され、社会に害をなす無能者を社会から排除しようとし、さらに国運は衰退するかもしれない。社会的に有害無益なメンバーの摘発と排除にどんなに資源を投じても、それは価値を作り出すことにはならないからだ。
というような指摘は極めて当然で、納得できるものなのだが。でも、そういった思考の流れは深くこの国に浸透している。駄目な奴を叱ったり排除したりすることがもっとも重要である、というところで思考停止する人は、ものすごく多い。
上記のような視点は、子育てに関する章に実はつながっている。内田氏は未熟な親として子育てをしてきて、ある時点で子どもを愛することよりも敬意を持つことを優先することに決めたという。子どもを愛しているから、子どものことを心配して、子どもの将来のことを考えて、子どもを傷つける親が実に多いことを骨身にしみて知ったからだという。それに対して、子どもに敬意を持つということは「この子の中には私の理解や共感を絶した思念や感情が潜んでいる。そのことを素直に認める。そして、無理をしてそれを理解したり、共感しようとしたりしない。」ことである。子どものために無理をすれば、その分だけ親はどこかで子どもに「貸しがある」という気分になり、それを回収したくなる。だから、「あなたのために私はこれだけ努力してきた」という言葉を決して子どもに向けてはいけない。と彼は説いている。
そこに、私は強く共感する。私も未熟な親であり、子どものためにあれこれ努力も積み重ねていなかったわけではないが、それは結局のところ、子どもに重荷を背負わせる結果になりかねず、それよりは、子どもを信頼し、本人に本人の人生を任せ、私は少し離れたところから彼らを見守り、幸せを祈る立場であるほうがお互いのためであると気づくに至った。敬意を持つことは、距離を保つことでもある。そして、信頼を寄せることでもある。それは、実のところ、子どもだけでなく、あらゆる周囲の人たちに対する態度として必要なことのように私には思える。自分にとって異質なもの、害をなす者に対しても、一定の敬意はあってしかるべきだと私は思う。
というようなことを私はこの本で考えたのだが。だが、社会を見ると、暗澹たる思いに駆られる。これから、この国はどうなってしまうんだろう。私には何ができるのだろう。