なでし子を夜半の嵐にた折られて

なでし子を夜半の嵐にた折られて

101 田中伸尚 影書房

副題は『「甘粕事件」記憶の再生』。甘粕事件とは、1923年(大正12年)9月16日、アナキスト大杉栄と内縁の妻、伊藤野枝、大杉の甥の橘宗一が憲兵大尉の甘粕正彦によって殺害され、遺体が井戸に捨てられた事件である。関東大震災あとの戒厳令下で行われた弾圧事件の一つだ。

この本は、六歳で殺された、大杉の甥、橘宗一とその両親に焦点を当てている。なぜ、宗一がその場に居合わせ殺されなければならなかったのか、宗一の両親はどんな人で、その後の人生をどのように送ったのかを調査、記録したノンフィクションである。

宗一は日米両国籍を持つ米国生まれの少年だった。母親のあやめは大杉栄の末妹。母親を早くに亡くした後は親戚兄弟の家にあちこち預け回られ、数え16歳で女学校を中退してアメリカポートランド在住の橘惣三郎と写真一枚で結婚を決め、渡米している。母親の記憶も薄く、住む家も転々とした挙句に女学校も中退して写真だけでアメリカの男に嫁ぐなんて、どんなにか不安だったろう。アメリカで一人息子の宗一を生んだのち、胸を病んで療養のために子連れで帰国。静岡の病院に入院中、大杉と野枝が宗一の面倒を見ていたようだ。大杉は子ども好きだったし、野枝は自分も子どもを多く生み、家事も育児も得意だったという。

大震災で宗一の安否を気遣っていたあやめは無事の知らせを受けて喜んでいた矢先、大杉、野枝と共に息子が虐殺されたことを知り、絶望する。甘粕は、戒厳令の機に乗じて不逞の輩である大杉のような無政府主義者を一掃したいと考え、同行していた宗一を生かしておくと凶行がばれてしまうので部下に殺害を命じた。部下は上司の命令に従い宗一を絞殺したと裁判で述べているが、甘粕は殺せと言った覚えはないと供述している。(のちに「部下が、私がそういったというのならそうなんでしょう」と言い換えたらしい。)

失意のあやめと米国の惣三郎は、アメリカ国籍を持つ宗一が日本の憲兵に殺されたことをアメリカ領事館に訴え、抗議を申し込むが、対応は冷たかった。宗一の死後も惣三郎は帰国することなく、あやめはアメリカに戻ったが、数年後、離婚して帰国する。夫婦の間で「宗一のカタキを取る」ことに意見の相違があったという。のちに惣三郎はあやめを追いかけてきて刃傷事件を起こし、逮捕される。あやめは無政府主義者の仲間入りをし、早逝する。そして、惣三郎はその後、どうしたか。

1972年、名古屋市の日泰寺で夏草だらけの茂みに埋もれた墓碑が発見された。そこには「犬共に虐殺サル」という文字が刻んであった。それこそが惣三郎の残した宗一の墓碑だったことが明らかになる。これがかれの「カタキ」の取り方であった。

戒厳令下で、自由を求める思想家を軍人が理不尽に抑圧し、圧殺する。そのために幼い命を犠牲にすることにためらいもない。そして、その後も虐殺への抗議をはねつける。しかも、無政府主義者を駆逐した甘粕を賛美する声が市民にも高く、軍法会議で懲役が決まったのちも減刑嘆願署名が次々と集まり、甘粕はほんの二年かそこらで出所している。今現在、世の中で起きている様々なことを見るにつけても、権力者や、軍事力を賛美する人たちがやることの正体が見えてくる。都合の悪いものを踏みにじり、叩き壊すやり口は、いつの時代も同じだ。

まだ六歳の一人息子を無残に殺されたこの夫婦のその後の人生を思うと、たまらなく苦しい。そして、これは彼らだけの話ではない。次には私たちにだって起こりうる出来事なのだ。災害に乗じて戒厳令をしき、世の安定のためにという名目で権力が都合のいい方向に社会を力づくで向かせる。そんな事が絶対に許されない世の中でなければいけないというのに。今、国がやろうとしていることは、つくづくとあの時代と同じ方向性だ。