115 山口真美 東京大学出版会
作者は顔認知研究者である。2018年に「顔・身体学」が科研費新学術領域研究に採択され、ようやく体制を作り上げたところで”ガーン”なこととなったという。そう、癌患者になったのである。定期的な人間ドックの結果から数か月、開腹手術、抗がん剤治療のジェットコースターのような日々を送りながら、抗がん剤治療終了の一か月後には海外出張も入るスケジュールであった。
無理矢理スケジュールを入れた背景にはあくまでも「普通の人」でいよう、病を忘れようという思いが強くあったのだろう。そう彼女は後に振り返っている。健康と不健康の境目はどこにあるのか、健康で普通の人にはいつなれるのか、一度健康から降りたら、もう二度と戻れないのか。そんなことをもがきながら考える日々だった。死を恐れるのは当たり前の感情である。しかし、死は誰にでも平等にやってくる。だというのに、健康な身体だけを人目にさらし、病や死など身体のネガティブな面を包み隠すのは、実は近代社会の一部の地域だけのことであり、それがそれぞれの社会のそれぞれの身体にゆがみを作り出しているのかもしれない。そう思うに至った。死や死体、あるいは今を生きる私たちの身体は、ある時はあまりにも空虚なものとして、ある時はあまりにも生身でリアルな肉体として感じられるのだが、それは結局は私たちの心の揺らぎによるものだ。そんな身体をさらけ出してみようというのが本書の目的だ。と、第一章に書いてあった。
正直な話、私も齢を重ねるにつれ身体に不調があらわれるようになった。持病もある。そのうえ、時として体のあちこちに驚くような出来事が…例えば全身にとんでもない蕁麻疹が出て数日間消えないとか、臍の内側に粉瘤が出来て化膿し、切開手術を受けるとか、白内障で眼内レンズを入れるとか、様々な数値が危険領域にあって投薬治療を要したり。それでなくても前なら何でもなかったような旅でへとへとに疲れたり、家中を掃除しただけでぐったりしてしまったり。まあ、歳ですなあ、で終わらせられることではありながら、わが身体とどのようにこれから付き合っていけばいいのかと途方に暮れていた。なので、この導入部分には非常に引き込まれた。のだが。
やはりこの方は顔認知研究者の第一人者である。自分の身体や顔(顔面麻痺にもなって、その経験も書かれている)の話を書いているのだが、徐々にそれは専門分野に移っていき、人は顔をどのようにいつ認知するのか、赤ん坊はどう人の顔を認識しているのか…などというところに踏み込んでいく。そして、たぶん私はその領域にはそれほど関心はない。
というわけで、作者自身が自分の身体と向き合い、病や死の恐怖とどう対峙していくかという部分ばかりをこの作品では読んでしまい、それ以外の、作者本来の専門分野に関してはさらっと読み飛ばしてしまった。あんまりよい読者ではないね。まあ、仕方がない。
作者が、死についてあれこれ考えているときに行ったという恐山に、実は私も最近いってきた。彼女が感じたというのと同じように、そこは特におどろおどろしいようなところではなく、のどかな良い場所であった。死というのは、そういうものなのかもしれない、と私も思った。今年の初めに亡くなった母をそこで呼んでもらえればよかったのかもしれないが、あいにく彼女はクリスチャンだったので、恐山のイタコさんに呼んでいただいたりすると返って怒られそう・・・というより、呼んでもし本当に来ちゃったら、そりゃまずいな、と思ったのであった。
顔認知について興味のある人には興味深い本だと思う。あとは、自分の身体との付き合い方にちょっと悩み始めたような人…私のような人は、部分的にとても面白いと思う。
