もうひとりのラストエンペラー

「クォン・デ もうひとりのラストエンペラー」森達也

森さんは、以前に「放送禁止歌」を読んだことがある。誠実でしっかりとしたノンフィクションの書き手だ。

「クォン・デ」という名前を私は知らなかった。知っている人はとても少ないだろう。フランスの植民地支配から抜け出すため、日本に亡命していたベトナムの王子。満州の皇帝溥儀と同じような立場だけど、全く知られていない。

ベトナムの留学生に、彼の存在を知らされた作者は、最初、テレビのドキュメンタリーを製作することを画策し、挫折して、活字にすることを選んだ。作者はもともと映像畑の人であり、私がかつて読んだ「放送禁止歌」も番組の活字化だったらしい。これも、骨太の優れたノンフィクションだった。

20世紀初頭に来日したクォン・デは、その後半世紀にわたって、日本を拠点として放浪の生活をし、二度と帰郷することなく、日本で亡くなった。彼の生涯を追いながら、革命家ファン・ボイ・チャウ、頭山満、犬養毅、大川周明などの姿も描き出す。待つだけの人生を送り、何事もなしえなかった人だけれど、彼の巻き込まれた歴史の流れから、多くのことが浮かび上がってくる。

目に止まり、何度も読み返し、心に残った箇所がある。「ラベリングされる歴史」という章だ。少し長いけれど、一部を引用したい。

人が皆、同じ方向を見つめ続けることなど絶対にありえない。でも僕らはいつのまにか無意識に、個よりも全体や組織を主語にしてしまう。その結果、ひとりひとりの個に対しての想像力は消失し、国家にシンボライズされる組織共同体に無自覚にラベルを貼ることで、意識下の納得を試みる。これはファシズム。これは左翼であれは右翼。これはテロリズムだからこの反対側は正義で、あっちは防衛だからこれは侵略。・・・等など。

 事象の分類はもちろん必要だ。特に歴史を考察するときに、端数を削ることはある程度は仕方がない。でも、端数がかつてあったことだけは覚えておきたい。正確な数値は記憶できなくても、存在していたことは忘れないようにしたい。右でも左でもなく、黒でも白でもなく、曖昧でグレイな濃淡が、僕らが営みを続ける領域なのだ。

 世界はだからこそ、豊かで示唆に満ちている。大事なことだ。過去だけではない。今後も情報化社会が進展すればするほど、世界は限りなく二分化されてゆくだろう。歴史だけではない。現在進行形の事象もすべて、情報としてわかりやすく整理され記号化される。趨勢としては仕方のないことかもしれない。でもだからこそ僕は、その狭間に凝縮されている人の営みや情感を見つめ続けてゆきたい。

(「クォン・デ」森達也 より引用)

歴史をめぐる論争を見るたびに感じる違和感へのひとつの解がこれだと私も思う。正義が何かとか正しい数値が何かとか、そういうことにこだわる事で捨てられていくもの。それこそが、本当は歴史の真実かも知れない。私も、それを捨てたくない。

森氏は、この視点に立って、ノンフィクションを書き続けている。この本も、クォン・デを書きながら、彼の願いを書いている。祈りのような、願い。それに、私は共感する。

軍国主義を扇動した右翼の親玉のように思われている玄洋社の頭山満が、この本では全く違った人物として描かれている。彼の座右の銘は、「敬天愛人」。親子の間でも夫婦の仲でも兄弟同士でも町内の付き合いでも、広くは国際間の交流であろうと別に変わらない「敬愛」が、彼の理念だった。「人である限りは皆同じなのだ」という言葉は、ありふれているようで、実は本当に困難なことだ。心からその理念を信じ、理解し、実践できる人など、どこにいるだろう。(私はここで「ガンジス河でバタフライ」のたかのてるこを突然思い出したりするのだ・・)

また引用になる。

善と悪とを二分法で対置することに僕は絶対に抗いたい。人の内面や営みは、そんなにわかりやすいものでは決してない。骨の髄から残虐で血に飢えた個体や民族など絶対にありえない。人はそれほどに強くなれない。常軌を逸した行為はもちろんある。帰属する組織や共同体が暴走するとき、構成員である一人ひとりが信じられないくらいに残虐になる瞬間は確かにある。他者への想像力が停止するからだ。何かのきっかけでこの想像力が麻痺したとき、説明のつかないことを仕出かす人は確かにいる。でもだからこそ、描くのなら僕はその相反する二面性を露呈させたい。両端のあいだの煩悶や葛藤を抽出したい。人が本来持っているはずの優しさへの復元力を示したい

(「クォン・デ」森達也 より引用)

最近読んで面白かった「世界征服は可能か?」でオタキングの岡田斗司夫が馬鹿みたいにアニメの中の世界征服をたくらむ秘密結社の論理を追及しているのも、実はこういうことなんだろうな、と私は思っている。悪が絶対的に悪であることは何より困難だ。「独裁者の言い分」(R・オリツィオ)を読んでも、それがわかる。人は、優しく善良なままで、これ以上無いほどに残虐な存在にもなれる。重要なのは、そこの部分だ。

日本と言う国の、幾多の個人の優しさに支えられつつ、国家間の残虐な関係性の前に踏みにじられて行った一人のベトナムの王子の姿は、歴史のひとつの真実を教える。私はそこに感動する。

正義か悪か、何が正しくて何が間違っているか。それだけに夢中になって忘れてしまう、捨ててしまうものを、私は拾い集めて生きたい。子どもにそれを伝えたい。人の優しさと、残虐さの両方を、だからこそ、踏みとどまることの難しさと、それへの希望を。歴史を学ぶとは、最終的にはそういうことなのだと、私は思っている。

2007/10/15