わたしのいないテーブルで

わたしのいないテーブルで

112 丸山正樹 東京創元社

「慟哭は聴こえない」の続編である。前作で生まれた「聴こえない子」の瞳美も四歳になった。瞳美は、すべての授業を手話でおこなう私立のろう学校の幼稚部に通っている。彼女にとって言語とは手話である。家庭での会話はほぼ手話でおこなわれる。瞳美の母であるみゆきの母…瞳美の祖母の園子だけが手話ができなず、誕生日パーティで疎外感を味わうシーンから物語が始まる。

舞台は2020年、まさにコロナ禍真っただ中の春である。女性ろう者が口論の末に母親に刃物を突き立てた事件についての協力を求められる主人公の荒井。そこから、手話を介さない家族とろう者との関係性の問題が明らかになって行く。

ディナーテーブル症候群という言葉が登場する。聴者の家族の中にろう者が一人だけいる場合、会話の内容がわからなかったり、会話に参加したくてもできずに疎外感を覚えたりする。その本質は「愛情は感じるが、つながっていない」というものである。自分一人が家族であっても家族でないような感じ。ろう者教育において、長い間、手話が否定されることがあったため、家族が手話を知らず、覚えようともしない状況が多くある。そんな家庭の家族団らんの場では、ろう者は会話に参加できず、ただただおとなしくその場に座っているしかない。そうした家族間のコミュニケーションの不在が、この事件にも大きく影響する。

私が思い出したのは、下の娘が小さかった頃、食卓で「Mちゃん(娘)にもわかるお話して!!」と大声で言われた経験である。うちの子たちは八歳差である。上の子の学校での悩みなどを聞いて、ついつい話が白熱すると、まだ幼い下の子には理解不能の話題が飛び交うことになる。部活や、受験や、人間関係の複雑な絡み合いなどについて語り合っていると、いきなり下の子が大声で、上記のように言うのである。「そうだね、ごめんね、Mちゃんにもわかる話しようね」と私たちは、はっとして話題を変えたものだった。たぶん、彼女はとてもつまらなかったし、疎外感を覚えていたし、寂しかったのだろうと思う。そして、ずいぶん我慢もしてくれていたのだと思う。あれもまた、ある種のディナーテーブル症候群だったのかもしれない。その場の会話に参加できず、内容もわからない状態で放置されるという意味では全く同じなのだから。

娘は、大声で自己主張ができる子であった。だが、それが出来なくて、ずっと我慢して黙ったままでいたら、きっと、家族で自分だけが仲間外れだと思ってしまっただろうし、自分が家族に愛されているかどうかも不安になったかもしれない。だから、ろう者のディナーテーブル症候群の話は実感としてわかる気がする。そういう思いをわが子がしている、と親がなかなか気づけないことも含めて、わかってしまう。いまさらながらに、下の娘、ごめんよ、と思ったりもする。

この「デフ・ヴォイス」シリーズは、ろう者をテーマにしているし、ろう者に焦点を当てて描かれている。だが、それが日常や日々の生活に根付いた物語であるために、たとえろう者でなくても同じような問題に突き当たることがあるとわかる。自分が、自分以外の人間の状況や気持ちに気が付けないこと、思いが至らないことがあると教えてくれるし、自分にしかわからないことは、何とかわかってほしい人に伝える努力をしたほうがいいということにも気づかせてくれる。

どんな立場の、どんな人にも様々な事情があり、いろいろな気持ちがあり、そして、みんな一生懸命生きていて、分かり合ったり支え合ったりできれば、今よりもっと幸せになれるはずだ。というごく当たり前のことを、もう一度考えることができる物語だ。また続編も書いてほしい。