わたしのおとうさんのりゅう

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73 伊藤比呂美 左右社

「ららら星のかなた」で谷川俊太郎さんとの対談を読んで以来の伊藤比呂美である。夫が図書館で借りてきた本なのだが、読み始めてすぐ彼は「ああ、これは本当に良い本だ!」と感嘆の声を上げた。その後も、うぐうぐ唸りながら読み進め、旅のさなかに読み終えたので、回してもらった。なるほど、すごい本であった。

最初は「エルマーのぼうけん」の話から始まる。エルマーは、私自身も子ども時代に読んだし、二人の子どもにも繰り返し読んでやった。肌に染み付いた児童文学の一つである。伊藤比呂美も同じで、子どものころにも読み、子どもたちにも与えた。ただ、彼女が子どもたちに与えた本は英語版であった。そのころ彼女はアメリカで暮らしていたし、エルマーを読み聞かせるのは英語話者である夫の役目だった。だから、伊藤さんご自身は読み聞かせていなかった。夫を看取り、日本に戻ってしばらくして原語版を読み返したという。私もこの本を読んで思い出したのだが、エルマーとは、この本の語り手の父親だった。日本語版で主人公は「エルマー」と書かれていたが、原文では一貫して「My father」と呼ばれている。その事実の指摘から始まって、伊藤氏は、翻訳による、原文との様々な違いを語る。私も、「あしながおじさん」を様々な翻訳で読み、最後には原文で読んで、それら一つ一つの個性や大きな違いに気が付いて驚いた経験がある。それを思い出した。

話題はそこから「ドリトル先生」に移る。なので、てっきりこの本は児童文学がテーマなのかと思っていたが、話は思いがけない方向に展開した。伊藤比呂美のお父さんの話、そしてお母さんの話へと移っていくのである。彼女の父は、ヤクザであった。背中には立派な彫り物があったという。大学を出て、特攻隊の教官となり、自らも特攻に志願しながら終戦を迎えた後、彼に何があったのか。そして母とどこで知り合い、どう生きてきたのか。そこには、色濃く戦争の影があった。

考えてみれば、私たちの世代の親たちには当たり前のように戦争の記憶があった。誰もがどこかで戦争の影を背負って生きていた。私も両親から空襲の話を聞き、予科練少年兵だった父からは、同期の仲間の死体を丸太のように運んで穴に放り込み、油をかけて燃やした話まで聞いた。戦争は遠い国の話ではなく、すぐそばの、ついこの間まであった出来事だったのだ。その記憶によって、人々は戦争への拒否感を強い共通認識としていた。

伊藤比呂美は「エルマーのぼうけん」から出発し、ドリトル先生、少年少女文学全集、シートン動物記、メアリーポピンズなどを経由しつつ、両親の歴史を語っている。本を読むことは人生に色濃く影響し、両親や、その両親に育てられた自分の歴史を語ることと分かちがたく結びついている。両親を見送り、子どもたちの手も離れ、自分一人になって、もう一度、親と向き合う。私もいま、父と母を振り返り、何度も思い返し、復習し、発見し、捉えなおしている。だから、その流れがよくわかる。読んできた本、両親の歴史、そして今自分がここにこうしてあること。それらはすべて結びついている。

話題は思っていたのと全く違う方向に展開していったのに、とても納得できる、充足感のある、良い本であった。「エルマーのぼうけん」をもう一度読み直してみようかな、と思った。