アニータの夫

アニータの夫

63 坂本泰紀 柏書房

アニータという名前をあなたは知っているか。2001年、青森住宅供給公社で起きた14億円を超える巨額横領事件。犯人は公社の経理担当社員、千田郁司で、横領金のほとんどはチリ人女性、アニータに送られていた。この事件は、だから「アニータ事件」として記憶されている。

2024年にネットフリックスがこのアニータの半生をドラマ化すると発表した、らしい。私はネットフリックスに入っていないのでよく知らないし、実際にはまだドラマ化されてはいないようだ。だが、その情報によてアニータ事件は再度注目を浴びた。

作者は以前、朝日新聞社の岡山総局のデスクを務めていた。2017年、服役を終えたアニータ事件の犯人、千田郁司から手紙が来た。誠意をもって真実を話すという内容である。それから50時間を超えるインタビューを経て、この作品が書かれた。

なぜ14億円もの横領がばれずに行われたのか、なぜそれをチリ人女性につぎ込んだのか、チリ女性はなんでそれを受け取り続けたのか、そして何に使ったのか。疑問だらけの事件で、犯行発覚当時、かなり話題を呼んだことを覚えている。

作者は犯人の千田へのインタビューに加えてチリへも取材に行き、アニータや、その周辺人物への接触も試みた。そして、かなり詳しい事実を明らかにしていった。ただ、どんなに言葉を尽くしてもなお、千田もアニータもよくわからない人である。

なぜ14億円もの横領が易々とできたのか。そもそも青森住宅供給公社は、安い山林や農地を大規模に住宅造成して売却する組織である。公的組織なので儲けを出してはいけないことになっている。だが、その住宅地の隣に民間会社が住宅地を作るともっと高い値をつけるしかなく、それに値を合わせないと民業圧迫だという批判がなされてしまう。そのため、民間に合わせて原価を操作して値段を上げ、かつ、利益は出ていないかのように調整金などの名目で巨額のプール金が貯めこまれるようになっていた。その、使ってはいけない、誰も必要性を持たないお金が何十億もため込まれ、それを管理していたのが千田であった。つまり、誰かが汗水流して働いて稼いだ金でもなければ、何かを作って売った金でもない。ただただ、なんとなく民間に合わせるために値を釣り上げた、適正価格との差額にすぎず、誰ひとり実感を持つ金ですらなかった。儲けてはいけないから隠している金。であるなら、多少減らしたところで構わないではないか、という感覚が千田にもあったようである。いわば泡ぶくのような金だったのだ。

千田は、子どもを残して日本にまでやってきて売春をしなければならないアニータに同情し、チリの貧しい子どもたちを救いたいとも思い、子どもたちのための病院や施設を作りたいというアニータに横領金を注ぎ込んだ。チリを訪れ、婚姻届けも出した。が、だまされているのではないかとうすうす気が付いてもいたと思う。だのに、なぜ、お金を渡し続けたのか。アニータは婚姻届けを出しつつ、キューバ人の恋人を作り、子どもを産んだ。千田には子供は流れたと嘘を言い、泣きさえしたという。病院経営に手を出し、豪邸を作り、横領が発覚したのち、自分は何も知らなかったと言い逃れた。が、彼女名義の豪邸は差し押さえられた。と言っても、受け取った金額のごくわずかしか戻ってはこなかった。

詳しいインタビューや取材、そして彼らの交わした手紙を見てさえも、いったいなぜこんなことになったのか、彼らは何が欲しかったのか、よくわからない。千田は今、事件のことがわかると解雇されてしまうので仕事にもつけず生活保護を受けて生活している。アニータは、その後、何人も子供を生み、たくましいシングルマザーとしてチリでは一部の人に支持をされ、一部の人には軽蔑され、時々メディアに登場してご意見番のようなこともやっているという。不思議な人物である。

読み終えても、千田にもアニータにも全く共感ができない本であった。ただ、不思議な人たちであり、不思議な事件だったと思う。あまり怒りがわいてこないのは、そもそもが泡のような金の話であったからなのだが、地元の人たちの感想はまた違ったものなのだろうとも思う。