アンネの日記 増補新訂版

アンネの日記 増補新訂版

68 アンネ・フランク 文春文庫

おそらく誰もが知っている有名な本である。私も子ども時代に読んだ。だが、「乙女の密告」を読んで、「果たして私は『アンネの日記』をちゃんと読んだのだろうか?」という疑問が湧き出てきた。それで、長い旅なら多少退屈な本でも読めるだろうと書店に買いに行った。そして、驚いた。ひとつには、「アンネの日記」がすぐにわかるところには置いておらず、店員に探し出してもらわないと見つからなかったこと、もうひとつは、私の記憶よりもはるかに分厚い本であったこと。

「アンネの日記」みたいな超有名本は、いわゆる名作文学の並びに、探すまでもなく置いてあるものだと思っていた。まさか店員さえもが首をかしげながらあちこち探し回らないと見つからないとは思っていなかった。もう「アンネの日記」は世の中の脚光を浴びない本になっているのだろうか。それから、「アンネの日記」はアンネの父、オットー氏が亡くなった後に、彼が編集した部分を改訂した、より自書原稿に忠実な版が出版されていた。そのことに、私はずっと気が付いていなかった。オットー氏の編集は、性的な記述を削除したり、アンネの母親の立場を考慮したり、彼らと共に過ごした人々を傷つけまいとした配慮によるものであった。私はその配慮に基づいた短縮版を、おそらく子供時代に読んでいたのだ。というわけで、とても新鮮に、私はこの分厚い本を読んだ。そしてそれは、想像した以上に、非常に面白い魅力的な本であった。多少重くとも、旅に連れて行ってよかったと思える本であった。

読み始めてすぐに私は思い出した。アンネはキティと名付けたこの日記に、最初に自己紹介するに際して、周囲の友人たちの悪口をたっぷり書いている。それと、自分がどんなに人気のある才能のある女の子であるかも。たぶん、その辺りが思春期であった私には鼻持ちならないと感じられたのだ。実はお腹の底でこんなことを思っているような子となんて友達になりたくないわ、けっ!という反発を感じたのだと思う。導入で感じた反感が私の目をくらました。それから、思春期の私は、狭い場所に長いこと多くの人たち…家族や、家族でない人たちと潜んで、どこにも行けない状態で過ごすのが、どういうことなのかをわかっていなかった。閉じ込められた状態の苦しさ、不自由さを想像する経験と力に欠けていた。だから、彼女が周囲の人たちを批判したり、自分のころころ変わる感情をそのまま書きつけることにいら立ちを覚えたのだ。今読み返すと、そうした批判的な視点や、自分自身を見つめる目こそが、間違いなく彼女自身の手によって書かれた文章の証しであり、であるからこそ、彼女が何を思い、どのようにそれを昇華し、成長していったかが生き生きとわかることに気が付くのだが。それが、当時の私にはわからなかたのだなあ、と今頃になって気づいた私である。

「乙女の密告」の作者のエッセイ「じゃむパンの日」には、小児病棟の毎日の話が時々出てくる。思うに、作者は子ども時代を病院で過ごした経験があるのだろう。だとすると、狭い部屋に押し込められて、自由に外に出られない苦しさ、もどかしさを彼女は自分の経験として受け止めることができたのかもしれない、と私は想像するのである。好き勝手にどこでも走り回っていた私にはわからない共感を、彼女は子ども時代から感じ取ることができた。それが「乙女の密告」につながったのかもしれない、と。

大人・・というよりすでに熟年に達した私の読む「アンネの日記」は圧巻であった。13歳から15歳にかけての少女の活きの良さ、強さ、純粋さ、時に感情にゆすぶられ、コントロールを失い、それでもまた立ち戻る嵐のような日々、真実を知りたいと願う心、そして自分と向き合う勇気。そうしたものが言葉を尽くして語られ、まっすぐに心に切り込んできた。一人の少女の成長を、我が物のように感じ、味わった。母親への鋭い批判は、母である私自身に痛い時もあり、また、娘である私に深い共感をもたせるものでもあった。揺れる恋心も、周囲の人への視線も、行きつ戻りつしながら自問自答する姿に、わかるわかる、と思わずにはいられなかった。アンネという名前の少女が間違いなく生きていた、ということを、くっきりと教えられた。

書くことの好きなアンネは、将来について「わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!」と書いている。アンネの願いは叶っている。世界中の人のなかに、アンネは生きつづけている。だというのに、今、ガザで何が起きているのか。イスラエルは、何をしているのか、それを思わずにはいられない。アンネはこう書いている。

この言葉を、私たちはみんなもう一度かみしめなくてはいけないのではないか。なんで、私たちはいつまでもこんなに愚かなのだろう。同じような間違いを、繰り返し、繰り返し行い、たくさんのアンネを作り出し…。

もし、今、アンネの時代のようなことがこの日本で起きたとして、私はアンネを守れるだろうか。彼女たちをかくまい、ただでさえ少ない食料を手に入れて運び、必要な物資をそろえ、見つかったら命さえ危ぶまれるような危険を冒してでも他者を助けようと思えるだろうか。そんな勇気と決意を私は持てるのだろうか。社会の間違ったことに堂々とNOが言える自分で居られるのだろうか。そんなことも考えた本であった。

子ども時代、短縮版を読んだ人、新訂版もぜひ。新しい発見があると思います。