アーロン収容所

アーロン収容所

90 会田雄次 中央公論新社

五日間、東北を旅してきた。下北半島をまわって、花巻に出た。下北半島は涼しかったが、花巻は既に暑かった。もう、日本に涼しい場所はほとんど残っていないのだろうか。

旅に連れていく本にいつも苦労する。少ないと困るが、多いと重い。今回は紙の本二冊雑誌一冊をもったがあっという間に読み切ってしまい、この「アーロン収容所」は電子本である。電子本は旅には便利だが、目が疲れる。あちら立てればこちらが立たずの旅の本である。

さて、「アーロン収容所」である。何で読むことになったのか、確か誰かの本の中で勧められていたからだと思うが、それが誰だったのかが思い出せない。第二次大戦後、ミャンマーでイギリス軍の捕虜となった作者の二年間の体験記である。作者は後に京大名誉教授になった人で専門はイタリアルネサンス史であるが、この本において専門は特に関係はない。

シベリア収容所の話はつとに有名だが、ミャンマーの我々のほうがひどい目に遭ったのではないか、と書かれている。私はシベリア抑留の展示を見に行ったことがあるが、寒さと飢えが酷く、袖を切り取ってパンと換えたという袖なしの外套を見て愕然とした覚えがある。ミャンマーは暑いが、厳しい寒さと闘う必要はなく、シベリアのような激しい強制労働もなかったようで、どっちがひどい目に遭ったかという比較は無意味かもしれない。

作者がつらいと感じたのは何よりも人間の尊厳を踏みにじられたことである。現地の糞尿の清掃をさせられたことや、イギリス兵に家畜のように扱われたことが何よりも苦痛であったという。イギリスの女性兵士は日本人捕虜の前で平気で全裸にもなる。なぜなら、家畜の前で裸になっても何ら問題はないからである。日本人が見ている前でイギリス兵士が女性を連れ込んでいちゃつくのも、ちっとも恥ずかしくはないらしい。なぜなら、家畜がそこにいるだけだからである。そういうイギリス人の感覚を、彼は克明に描いている。インド人は「この作業が終わったら帰してやる」というが、それが終わっても「では、これもついでに」と働かせる。絶対に約束を守ることはしない。そして、それが当たり前だと思っていて、批判しても伝わらない。ミャンマー人は善意に溢れているが、突然残酷になることがある。そういった、国による歴然とした違いも描かれている。

イギリス軍の士官、上官は上流階級の出身で教育程度も高く、体格もいい。部下は下に行くほど学もなく、体格も貧弱になって行く。日本軍においては、大学出身者は憎しみの対象となり、最低地位に置かれがちである。イギリス軍は日本の上官たちに命令を下してそれを行き渡らせようとするが、彼らは英語も理解できない。ごく下の地位の日本人の中に大学での英語を解する者がいると「うそをつくな!」とイギリス人は怒る。が、それが日本軍の現状であった。イギリスには厳然たる階級感があり、日本の軍隊では学のあるものが虐げられる。それが両国の文化の違いである。

人間が誇りを傷つけられることは、時に飢えや肉体的な苦痛を上回る。なぜ、素手で糞尿を掃除させられるのか、家畜のように扱われるのか。作者の怒りはよくわかる。が、同時に、歴史の中で多くの女性たちはずっとそういう立場に置かれてきたんだよなあとふと思う私である。

イギリスのご立派そうなヒューマニズムなぞ、こんなもんだという現実を彼は書いている。だが、ちょっと離れてみると、今を生きる私たちも同じようなものかもしれない。私たちのヒューマニズムなど、そのようなものだ。苦労して日本にたどり着いた移民の人々に対する多くの人たちの態度はどうなのだ。障害を持つ人々や性的マイノリティの人々に対する態度はどうなのか。捕虜ですらないその人たちに対し、人間として尊厳を踏みにじる今の日本人の在り方はどうなのだ。

人を人として扱う。同じ命をもった存在として対等に尊重する。それだけのことが、どうしてもなかなか実現できない。戦争は、それを目に見えて明らかにするけれど、平和なはずのこの国ですら、実はそういうことが日々起きている。しかもエスカレートしていっている。そんなことを思いながら読んだ。