80 萩尾望都 小学館
「一度きりの大泉の話」以来、萩尾望都を読み返したいと思っていた。図書館でとりあえず手に入ったのが、この本。表題作のほか、「カタルシス」「午後の陽射し」「学校へ行くクスリ」「友人K」が収録されている。
無理解で支配的な親。愛されていない自分に戸惑う子。周囲と上手くやっていけない子。そして、親の側の苦しみもまた、すくい取られている。初版は1994年。三十年近く前に、もうこんな作品を描いていたのだ、と改めて思う。これは、萩尾望都自身の問題でもあったのだろう、と思う。
イグアナの娘は、母に嫌われたくなくて、でも母は自分を好きになってくれなかった。彼女も母を愛したくて、でも愛せなかった。最後に母の亡骸を見たら、母も自分と同じイグアナだった。涙と一緒に、彼女は自分の苦しみを流した。
まだ毒親という概念が広く知られていない頃、この漫画はどれだけの衝撃を読者に与えたことか。気が付かされた、身につまされた、癒やされた人がどれだけいたことか。萩尾望都の視線は、母にイグアナと呼ばれた娘の側だけに注がれているのではない。娘をイグアナとしか思えない母の苦悩にも注がれている。どちらも苦しみも、ある種の等価をもって描かれている。そこが彼女の鋭いところである。
こんなに外側から冷静に関係性を見ることができるのに。互いの苦しみをフラットに捉えることができるのに。なぜ、竹宮恵子との関係性では、自分のいけないところ、自分のやってしまったことにしか注目しなかったのだろう。嫌われたからその場から逃げる、という選択しか見ず、何が問題だったのかを向き合って話し合うということを考えもしなかったのはなぜなんだろう。表現することと、生身の人間として存在することに差異があったということなのだろうか。
萩尾望都の心は、もっと深い深いところで傷ついていて、母がイグアナだと気がついたところで、その苦しみは、本当には流れきっていないのかもしれない、と思った。