エルサレム〈以前〉のアイヒマン 大量虐殺者の平穏生活

エルサレム〈以前〉のアイヒマン 大量虐殺者の平穏生活

2022年1月13日

1 ベッティーナ・シュタングネト みすず書房

皆様、あけましておめでとうございます。
と書くのもおかしいほど、時間が経ってしまいました。それというのも、この本のせいです。昨年末からふうふう言いながら読み続けてきて、長い時間をかけて、やっと読み終えました。もちろん、それまでの間に年末年始の大掃除やら正月準備やらもありました。そして、本当に久しぶりに子どもたちも来て家族四人、何をやるかと言えば、まるで大学のゲーム研究会の合宿並みに朝から晩までボードゲームに明け暮れた日々でした。「カタン」というゲームの拡張版の全シナリオをクリアし、2019年ドイツ年間ゲーム大賞エキスパート部門大賞受賞作である「ウイングスパン」という鳥を集めて卵を産ませるゲームを繰り返し、いつもなら夜十時半に寝る良い子の私が日付を超えるまで半分寝ながらボードに向かい、朝ごはんを食べてはゲーム、お昼を食べてはゲーム。そんな嵐のような日々もあって読書が進まなかったこともまた確かではあります。

だとしても。この本は、読むのがつらかった。ユダヤ人問題の最終解決策として民族すべてを虐殺、抹殺するという方針を立て、それをヒトラーとともに実行したナチスドイツのアイヒマンという男が戦後アルゼンチンに逃れてからイスラエルのモサドに見つかり、拉致され、裁判の結果絞首刑になるまでのいきさつを、ドイツの哲学者が膨大な資料から書き起こした本です。

アイヒマンと言えば、哲学者のハンナ・アーレントを思い出さずにはいられません。アイヒマンの裁判をすべて傍聴した彼女は「悪は凡庸な姿をしている」と言いました。アイヒマンが組織の中で上司の命令を忠実に守り、良き部下であろうとした結果としての大量虐殺であった、という結論に彼女はたどり着いたのです。ブルンヒルデ・ポムゼル ナトーレ・D・ハンゼンの「ゲッべルスと私」はまさにアーレントの言葉通りの展開でした。個人が自分の行動を自らの倫理観に問い、自身の責任の下に生きるのではなく、国家や組織がこうあれと定めたとおりに動いた結果として罪を犯したとしても、それは「私」の罪ではない、という意識だけが残ったのです。勿論、アーレントはその事自体の恐ろしさを糾弾する人でした。それは、戦後の日本の在り方に恐ろしいほどによく似ていたし、今の日本にも同じような意識があちこちに存在する、とつくづく思ったのを覚えています。

ですが、この本の作者は、アイヒマンは平凡な良き部下でなどはなかった、明らかに意思をもって大量虐殺を行い、それを正義と信じ、戦後もその任務を実行し続けたいと願っていた、と大量の資料から暴き出します。ハンナ・アーレントをもってしても騙されてしまったアイヒマンという男の底知れぬ恐ろしさ、罪の深さを確実な証拠を多量に提示することで証明するのです。

アイヒマンはアルゼンチンに逃れた後、元SS隊員W・サッセン主催の座談会に参加します。そこで、彼は自分が今までやってきたこと、これからするべきことを語りつくすのです。ホロコーストなどはなかった、あるいはもっと小規模のものであったとごまかしたい欲望を持つ人々の前で、アイヒマンは堂々と自分がどれだけ大量のユダヤ人をいかに効率的に殺したのか、それがどんなに素晴らしい正義だったかを語るのです。そして、それは、録音され、かつタイピングされ、記録に残されていたのです。でありながら、それらが全体として公開され、調査されることはほぼないままに近年まで葬り去られていました。なぜ?そこには様々な要因がありましたが、最終的には、アイヒマンと自分がどのようにかかわったか、アイヒマンが何かをした時に自分が何を手伝ったか、アイヒマンが何を目指していたかがわかると危機に陥る人が、あまりにも多くいたからです。それは、ドイツ国内の政治家、要人などににとどまらず、例えばカソリック教会の司祭やイスラエル政府の要人にまで及ぶ人々でした。そして、今もなお、まだ未公開の資料が残っている。それが何を意味するかを今なお調べる必要性は残されているのです。

読み続けるのは本当につらかった。恐ろしかった。いわゆるユダヤの陰謀説が、どんな風に信じられ、どんな風に流布され、また、ドイツ民族だけが生き残るべきだという主義主張がどのように受け入れられていったか、そして戦後、まだ何が起きたか世界が詳しく知らない間に、恐ろしいほどの数のユダヤ人を虐殺した人々がどのようにそれを全く反省しないままに、正当化し、さらに進めていこうとしていたかを見ると、気が遠くなります。

アイヒマンのやり口は、実は現代の日本にも共通するものが感じられます。たとえばアルゼンチンから匿名でドイツの極右雑誌に寄稿という形で意見を載せる。雑誌はあくまでも読者からの投稿の一つとしてその意見を載せるから、雑誌自身がその意見に賛成であるという立場はとらないで済む。あくまでも匿名の何人もの人間が繰り返し一つの意見を熱心に強く主張することで、それらの意見は多くの人に支持され、同意を持って受け入れられているかのように見せることができる。これって、Dappiのやり口と同じではありませんか。あるいは、統計的資料の数字の一部を少し改ざんする、記録を消滅させる。それによって不都合な事実は隠すことができるようになる。これまた、最近私達の国で起きたことにそっくりではありませんか。そして、日本民族だけが持っている素晴らしい血統をあらゆるものに優先すべきだと神聖化する姿勢は、ドイツ民族の優秀性を盲信した彼らと同じじゃないでしょうか。

それにしても、この本はあまりに大量の資料に依拠し、その正しさを明らかにするため事実の一つ一つが膨大な引用で固められています。そして、非常にこなれない、硬い翻訳。正直言って一度通読したところでどれだけその内容を正確に理解できたかは怪しいとしか言えません。でも、再読する元気は、今のところ私にはない。というわけで、この本、おすすめ!!とはどなたにも言えませんが、それでもなお、誰かには読んで欲しい、知ってほしいと思わずにはいられない本ではあります。とにかく、ハードでした。しばらくはもっと軽くて楽しい小説かエッセイ程度が読みたいな。頑張ったわ、私。

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サワキ

読書と旅とお笑いが好き。読んだ本の感想や紹介を中心に、日々の出来事なども、時々書いていきます。

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