34 近藤史恵 祥伝社文庫
「山の上の家事学校」の近藤史恵。この本は平成11年に書かれたという。確かにちょっと古い感じはある。独身時代、買い物依存症からクレジットカードの支払いに追いまくられ、実家の両親に尻ぬぐいしてもらった経験のある若い主婦。彼女の危機を救う、謎の整体師。整体院のスタッフ姉妹や雑誌記者、一人暮らしの万引き少年も加わって物語はどんどん展開する。整体師はいいキャラクターなので、この人を中心にまだ何冊も行けそうな感じ。と思ったら、本当にシリーズ化されていたらしい(笑)。
人が死なないミステリだし、悲しい人の気持ちを汲み取ることの上手な作者だと感心もするのだけれど、今一つ感情移入できないのは、たぶん、私が買い物依存症の反対で、モノを買うのがあんまり好きじゃないというか苦手だからだと思う。買い物をすると、なんか心がスカスカしてしまう。これは私の問題だし、単なるケチなだけかもしれないけど。必要ないものを買うことに喜びを感じられないたちなので、高いものをじゃんじゃん買って、それを心の支えにするというのがどうにもうまく想像できないのだ。みんな、これ読んで「わかるわかる」って思えるのかしら。私、できなかったなあ。
私の心に残ったのは、むしろこんな場面だ。買い物依存症の主婦が整体を受けてとても楽になるのだけれど、夫に、整体なんてきちんとした法律や規制がないし、行かないほうがいいと言われたので「もう来られないかも」と告げる。それに対して整体師は「わたしはあなたを癒すためにできるだけのことはするつもりです。それを選ぶか、選ばないかは、あなたにおまかせします。」という。主婦は突き放されたような孤独感をもち、どうして胸を張って大丈夫だと言ってくれないんだろう、と考える。思わず「先生は自信がないのですか?」と尋ねる。すると「自信がないのはあなたです」と返される。「あなたは自信がないから、選択の理由を他人に押し付けようとしている。ご主人が行くなと言ったから、くるのをやめ、私がこいと言えばくるのですか?決めるのはあなたです。誰もあなたの決断に保証などできません。」
この会話の流れ。これと同じような会話を私はよく母とやりあった。母は、何かを誰かに決めさせる人であった。そして、その結果がうまくいかないと、それを決めた人のせいにした。私は母に、自分で決めてほしいと何度も言ったものだ。そして、それはなかなかうまく伝わらなかった。何かを決めるのは、自分以外の誰かの仕事であり、自分はそれに従い、そしてうまくいかなかったときは、それを決めた人の責任である。母は、ずっとそう思っていたし、そうやって生きていた。そして、先日、亡くなった。
母を貶めようとしてこれを書いているわけではない。あの時代の女性はみな、そうやって生きていたのだと思う。子が育ち、夫を失い、一人になって、何もかも自分で決めねばならない境遇に陥ったとき、母は驚愕した。個人として生きなくとも、家族の中で、社会の中で、決められたとおりに動けば認められ、生きて行けた時代はとっくに終わっていたのだ。だのに、それに気づかずに80歳を超えてしまっていた母。誰も決めてくれない、誰も教えてくれない。最後の日々は、孤独で不安で、でもどこか自由で、初めて自分自身と向き合わねばならないものだったはずだ。そういう時間を持てたこと、与えられたことは、実は母にとって悪いことばかりではなかったのかもしれない。自由であること、自分で決意し、選択すること。私もそれをもっと若いころからしておけばよかったのね、と時に口にするようになってから、母は亡くなった。
葬儀を終えて、今、これを書いている。母は91歳であった。ここに至った経緯は、振り返れば口惜しいことも、後悔することも多々あるのだが、今は長い生涯を静かに終えた母に、お疲れさまでしたといいたい。