31きたやまおさむ「心」の軌跡 岩波書店
北山修は以前から気になって何冊も読んでいる。
「幻滅と別れ話だけで終わらないライフストーリーの紡ぎ方」
「帰れないヨッパライたちへ」
「日本人の〈原罪〉」
など。
精神分析家として、あるいは古事記や鶴女房などの古典研究者としての彼の仕事に興味があり、音楽はあまり聞いていない。が、実は彼の詞は結構読んでいるのだなあ。中学生のころ、ちょっと仲の良かった男子が北山修詩集をプレゼントしてくれたことがあったのだ。今思い返すと、それぞれに結構深い歌詞だったのだ。あのころは全然わからなかった。
北山修は学生時代に友達とバンドを組み、自主製作で「帰ってきたヨッパライ」のレコードを作り、そして大学で勉強するために解散も決めていた。だのに、そのレコードがラジオ番組から火がついて大ヒットしたため、一年限りの約束で音楽活動を行った。その時にマスコミュニケーションの中で精神的な不安を覚え、そこから逃げて医科大学に戻った。当時の仲間はそのまま音楽界に残り、北山は学生生活を送りながら、たまにDJをしたり、作詞をしたりもしていた。音楽を完全に断つとうつ状態になったので、つかず離れずの状態をキープしたのだ。
だが、様々な問題から、イギリスへ留学し、精神分析学を学ぶに至る。そして帰国後、精神分析医、大学教授、作家、たまに音楽活動を続けてきた。あれもこれも、とやってきた自分を自分が分析したのがこの本である。才能あふれる人間が何でもできちゃう、なんて物語ではなく、そこには切実な心の動きがあり、現実的な苦労があり、苦悩があった。とりわけ長年の親友でバンド仲間で患者でもあった加藤和彦を自死で失ったエピソードは読んでいてもとてもつらい。そこから、マイケル・ジャクソンやチャーリー・パーカー、ジャニス・ジョプリンなどがなぜあんな風に死んでいったのかを分析している。聴衆の熱狂に包まれながら、本当の自分が求められていないのではないか、という手ごたえのない虚しさ。
虚しさを埋めるために、私たちは何かをしようとする。でも、幸福感が得られるのはそれだけではない。「することの幸せ」だけではない「いることの幸せ」。何もせずに安心して本来の自己でいられるような場を確保しなければならない。対抗できる、無意味な楽屋のような場所。それがあってこそ、また、現実に戻っていくことができる。「あれとか、これとか」と揺れる潔くない自分も自覚して、時には受け入れていくしかない。表の自分を修正し続けて格好良さだけを追求して生き続けるのは苦しい。みっともない、格好悪いと言われようとも、細く長くだらだらと生きていく。そうした生き方だっていい、と北山は書いている。
北山が実は目に障害を持っていたことや、実はADHDであると思われることなど、はっとすることも書かれていた。運転免許を数えきれないほどなくして、再発行を重ねすぎて、悪用しているのではないかと疑われたことや、目の手術をして初めて本を長く読めるようになったこと、しかも再手術も必要だったことなど。芸能活動を経て大学を京都から札幌、イギリスと転々としていったことも、実は大変な苦労があったのだと思われる。そうしたこともすべて彼の歴史の中で、だらだらと細く長く生きることにつながっていったのだろう。
精神分析医は自分を分析してはいけない、と言いながら(だから具体的な事実などは結構省略はされているものの)非常に明晰に分析が行われていると思う。ここから学ぶものは非常に大きかったし、今自分を扱いかねて思い惑っている人が本気で読めば、何かしらの方向を見出せる本ではないかと思った。