35 鶴見俊輔 齋藤愼爾 編 柏書房
なぜこの本を読むことになったかというと、まず、「人間晩年図鑑1990~1992」に長谷川町子の晩年が載っていたからである。そこから詳しいことが知りたくなり「サザエさんの東京物語」を読んだ。それとは別に、関川夏生の仕事の一つである鶴見俊輔の言葉の聞き書き「日本人は何を捨ててきたのか」を思い出したところへ、この本を図書館のリストから発見。関川と鶴見とサザエさんがひとところに集結するという驚きの展開となった。(と言ったって、驚いたのは私だけだけどさ。)
とまあ、そんなわけで読んだこの本は、様々な言論人の書いた「サザエさん論」を鶴見と齋藤が選び出して一冊にまとめている。時代も立場も論調も実にさまざまであるが、2006年に出版されたものであるので、全体としては感覚が古いのは否めない。何しろ、草森紳一はこう書くのである。
ドアは、足で蹴ってしめる。夫に肩をもませる。正しいと思えば大声で男をどなりつける。こういった恣意的行動はたとえ戦前のお転婆娘にさえ考えられなかったものである。
サザエさんは、女なのだから、割引してもいいという気もするけれど、これを男の立場からみると、まったくやりきれないという気がする。サザエさんの無類の陽気さの下に夫のマスオがおとなしくいると思うと、彼が可哀想でたまらなくなる。(本書中「不幸なサザエさん」草森紳一より引用)
寺山修司は、サザエさんの性生活を論じて一家六人、ふすまで仕切られているだけの家に住んで、サザエとマスオが性的に抑圧されているという。そして、サザエさんが痴漢にでも強姦されて性的に目覚め、磯野家を解体することを救いとしたいとまで書く。いったいどこまで本気だったのだか。
一方、樋口恵子はサザエさんはウーマンリブである、と対極的に書く。カツオのお手伝いは家事においても自立する男子の象徴であり、堂々と発言、行動するサザエさんはフェミニストであり、女性の本音を書いている、と評価する。寺山説を、日本中の家がふすまで仕切られていたこと、他家に嫁いだ「嫁」の立場でもないサザエさんが性的に抑圧されていたわけがない、と一蹴する。
鶴見俊輔は、戦争の下で男たちが軍事にかかりきりになり、女性が社会生活を担うようになった結果、男のすることの大体は女にもできるということが事実としてあらわれた、と指摘する。そして、戦後、自信を失った男たちをうしろに従えて若い娘が一家を引っ張る物語であるとして「サザエさん」を評価する。父親、長男尊重を脱ぎ捨てた家の中のデモクラシーの漫画である、と。
なるほど、草森の言うような極めて旧弊な女性観からすれば、サザエさんは自立的で堂々と発言する強い女性であるかもしれない。だが、考えてみれば、そもそもが長谷川町子の育った、そして漫画を描いた基盤となった家庭は女性だけで構成されていた。そこでは母親が強い権力をもって子供たちを支配し、方向性を決めていたし、のちには姉がその地位を承継した。
マスオさんも波平も影が薄いのは、そもそもが作者の中に男性像が薄く、彼らもまた、ある種の女性の一部でしかなかった、と関川夏生は分析する。この指摘は鋭い。「サザエさん」が描いたのは、戦前の理想的な中流家庭であり、戦前のモラルでは家庭や社会を描き切れない時代が来たときに、サザエさんは終わった、という彼の説に、私は最も納得した。
マンガ「サザエさん」を私は子供時代にほとんどすべて通読していると思う。「うちあけ話」も「旅あるき」も、「いじわるばあさん」も「エプロンおばさん」も読んだし、楽しんだ。だが、日曜に延々と放映されている国民的アニメをほとんど見ていないし、これからも見そうにない。私にとって「サザエさん」は過去の日本の漫画に過ぎないと改めて思う。だとしても、これほどにずっと国民に愛され続けている漫画って何なのだろうか、とやっぱり不思議になる。今はもう、まったく違う別のものになっているのだろうか。何しろ数十年もそのアニメを見たことがないので、それ以上のことはまったくわからない。