ストーリーテリング講習

2021年7月24日

東京から関西のこの地に越してきて、一月半が経ちました。
今まで、毎週火曜日朝に小学校で続けてきた読み聞かせ活動がなくなって、何だかぽっかりどこかに穴が開いたような気持ちになりました。
そんな時、見つけたのが、図書館の「ストーリーテリング講習」募集のお知らせ。

そういえば、読み聞かせをして下さっている地域の方の「すばなし」を聞いたことがあります。本も、何も道具も使わずに、静かに、淡々と語っているのに、どんどんお話の中に引き込まれ、私もこんな語りが出来たら、どんなに素敵かしら、とうらやましく思ったものでした。

もしかしたら、それを教えてくれるのかしら。わくわくしながら申し込んで、先日、最初の講習を受けてきました。

失礼だけど、本当にごく普通のおばさんとお呼び出来そうな方が講師でしたが、お話が始まると、とても興味深く、楽しい講習でした。
ストーリーテリングをする資質を、敢えて言うのならば、

・自分の置かれている苦境、困難を外から、斜めから見て、こっけいなものとして捉え、笑ってしまえるような客観性がある
・気取っている自分を外から見て、くすっと笑ってしまうような謙虚さがある
・失敗したときに、自分の準備不足、考え不足を認め受け入れられる素直さがある
・子どもの感じる喜びを、我が物として一緒に心から喜べる
・子どもにお話を語ることの意味、価値を強く信じることができる

そんな人でしょう、という講師の言葉が、印象深かったです。

お話を聞くことは作り手、語り手、長い間に伝えられてきた伝え手など、たくさんの人の心を受け取ることでもあり、それによって、人は想像する力を広げられる。それは、生きる力ともいえる。

本を読む子にするために、読み聞かせで本に親しませる、と言う道筋に、私は、なんとなく釈然としないものを感じることがありました。

本を読むのは、絶対に良いことであり、正しいことであり、そこへ向かうために手段として、読み聞かせがあるのか?

ストーリーテリングという手法は、活字や絵、本に頼らずに、語り手が、自分の声だけでお話を物語ります。それによって、物語が本来持っていたであろう力をストレートに表すことが出来る、そんな気がしました。本を読ませるための手段、と言う解釈が成り立たない、シンプルなやり方です。

ドラマティックな演技は必要ない。
そうです。読み聞かせでも、時として、すばらしい演技力を発して子どもをひきつける人がいましたし、子どもたちはとても楽しんでいましたが、印象に残るのは、その人の声や身振りや演技であって、物語そのものではなかったような気がします。それはそれで、楽しい経験なんですが、物語を伝える、と言う意味では、ドラマティックな演出は、むしろ邪魔なような気がしていました。

驚いた声を出したり、泣き声を出したりしなくても、「とてもおどろきました。」「かなしみました。」と淡々と読めば、案外、伝わる、と、経験上、感じていたのです。

興味深い講習でした。
最後にいくつか聞かせていただいたお話は、プロフェッショナルなすばらしいものというよりは、じっくりとその人の気持ちが伝わってくるような素朴なもので、返って私は胸を打たれました。

人が心に感じていることは、ちゃんと、空気となって伝わっていく。その物語の何が好きで、どう感じているのか、それがじんわりと伝わってくる。そんな語りを、私もしてみたい、と思いました。

すぐにでも、実習に入るのかと思っていたら、第一回目は、「ストーリーテリングとは何か」第二回目は「お話の選び方」を学ぶようです。
語り手が、まず感じること。
自分が好きだと思える本を探し、じっくり何度も読み、どこが好きなのか、どんな風に感じたのか、ちゃんと本の中身と向き合い、感じ取って、それから、覚え始める。
ひとつの作品に、二、三ヶ月はかけましょう、といわれて、目からうろこでした。

「ストーリーテリング1」参照

2009/5/19