「ストーリーテリングー現代におけるおはなしー」 間崎ルリ子
・お話を語るという行為とその意味について
小さな子どもを育てていると、幾度となく「見て、見て!」と要求されることがある。ケンケンができるようになったとか、縄跳びが飛べるようになったとか、きれいなお花を見つけたとか、砂で上手に山が作れたとか・・・。自分の経験と達成感は、自分の中でだけ味わうものではなく、母親である私と分かち合うことで、初めて本物になるかのように、それはそれは熱心に、強い心をこめて、子どもたちは「見て、見て!」と言ったものだ。
体験が心からあふれ出たら、人間はそれを言葉で分かり合わずにはおれない。それが、お話のはじまりだったのではないか。
という本書の記述に、私は深く納得した。
嬉しかったこと、驚いたこと、がんばったこと、怖かったこと。
それを言葉にし、他者に伝えることによって、私たちはその経験をより深く理解し、味わい、自分のものにしていくし、聞いた者もまた、その経験を共有して、心を通じ合わせる。
そうせよと、誰に命令されなくても、ごく自然に、当たり前に、そうしたい、と私たちは思う。ごくごく小さい頃から。
おしゃべりな子どもたちとの日々の語らいの中で、私はこの年になっても、たくさんの新しい経験を得るし、子どもたちも成長していくことを感じる。お話を語るとは、遠い遠い昔から、語り継いできたたくさんの人たちと、同じような体験を重ねることなのだと思う。言葉を通じて、体験を共有し、心を通じ合わせることなのだ。
そうして、多くの人と体験や心を共有しあうことが、異なるものを受容し、他者の気持ちを思いやる基礎を形作っていくだろうと、私も思う。いろいろな存在が、自分と同じように、喜んだり悲しんだり驚いたり、深く考えたりするのだと理解できれば、拒絶、敵意、憎しみといった感情は起き難く、同じ価値を持ったものへの信頼感を持つことができるように思われる。
人と同じような格好をし、同じような音楽を聴き、同じような意見を持って同じでいなければなんだか不安であるという傾向は、さまざまな命あるものとの同化経験を持たなかったためではないかと言う指摘は、私には驚きであり、発見であった。
・おはなしの選び方
ストーリーテリングではなく、読み聞かせではあったが、これまでの四年間の活動を通じて、一番苦労したのが、本選びだった。良かれと思って選んだ本が、はかばかしい反応を得られず、何でもいいや、といい加減に選んだ本が、思いがけずに喜ばれたりして、なんと難しいものだろうと思い知らされたものだ。
おはなしは、それ自体価値あるものでなければならない、と私は考えます。〈中略)私は価値ある話というのは決して道徳の教科書に載っているような話ではなく、何かを教えようなどと言う了見なしで、子どもに何らかの意味で、深いよろこびや希望を与えるものではないかと考えています。子どもにとって、いいえ人間にとって、生きていく上で何よりも大切なのは喜びと希望であって、それを子どものときに心の深いところで感じ取っておかないと、その人はそれからあとの人生を全うできないように思うからです。
(「ストーリーテリングー現代におけるおはなしー」 間崎ルリ子 より引用〉
子どもたちに何かを教え込もうと下心を持って読み聞かせをすると、子どもたちは敏感にそれを察知して、つまらなそうな表情を浮かべたものだし、読み手である私が、その本の価値を十分に感じ取ってぜひ読みたいと思いもしていないのに、評判の本だから、というだけで選んだ本も、決して良い反応を得られなかったものだ。
逆に、子どもたちには難しすぎるかも・・と思いながらも、自分が大好きで、読むのが楽しいから、いいから読んじゃえ、と無理を承知で読んだ本が、いつもはそっぽを向いているようなやんちゃ坊主まで引き込むような結果を呼んだ事もある。
全ての子にとってすばらしい物語などは存在しないのかもしれない。が、読み手・・語り手が、その価値を心から感じ、読み、語ることに喜びを感じることができるような物語を選ぶことが、子どもたちにとっても、力となることを、私は経験的に学んだと思う。
考えてみれば、そのようなことを子どもに訴えて、どうなるというのでしょう。「戦争はこんなに悲惨のものだからやめましょう。」と言っても、子供が戦争をはじめるわけはないのですから、やめるわけにも行かないのです。「地球はこんなに汚れてしまって、住みにくい所になってしまった。」と認識させても、汚したのはおとなです。どうして大人のレベルで考えたり解決しなければならないことを、子どもにぶつけるのでしょう?〈中略)
子ども時代はよろこびの時代です。惜しまずに、子どもを喜ばしてやりましょう。
(「ストーリーテリングー現代におけるおはなしー」 間崎ルリ子 より引用〉
この主張に、私は全面的に賛成する。
娘が小三で「ちいちゃんのかげおくり」を国語の授業で習ったときのことを思い出す。大切なお父さんが戦争に取られ、空襲でお母さんとおにいちゃんとはぐれ、ひとりぼっちで死んでいってしまった小さな子のおはなしを、宿題として、毎日毎日、娘は音読し、私は聞き続けた。
「なんでこんな悲しいつらいお話を、毎日読まなければならないの?」と娘は嫌がっていたし、聞いている私も苦痛だった。「お母さんは、私を置いて死んだりしない?戦争には、絶対ならない?」と、小三の娘は、何度も何度も私に尋ねたし、私は何度も、大丈夫だから、あなたは守られて安全だし、怖いことは起きないよ、と言ってあげるしかなかった。
戦争体験は、語り継がれなければならないものかもしれないが、それは、注意深く、子どもの心を支え、守りながら行わねばならない行為だと私は思う。授業の教材として、大雑把にクラス全員に投げ出して、毎日、暗記するほど音読させて、そこから得るものと失われるもののどちらが多いのだろう、と私は疑問だった。
子どもに生きる喜びを十分に与えてやれば、その大切さを知り、守っていこうと考えることもできるだろう。生きることの喜びを知っていれば、それをいい加減に粗末に扱ったりもしないだろう。私は、子どもに、生きることの楽しさ嬉しさすばらしさを伝えたい。それが、喜びであり、価値であると思う。
読み聞かせを行う際に、昔話を選ぶのに躊躇することが多々あった。それは、舞台設定が、現代とあまりにかけ離れているために、子どもにわかりにくいのではないか、また、今では死語となってしまった古い言葉が理解できないのではないか、そして、お話が単純すぎて、つまらなかられるのではないか、という恐れからだった。
ストーリーテリングの講習で、「したきりすずめ」を聞かせてもらって、心底驚いた。とても、面白かったのだ。小さい頃から知っているはずのお話、単純で、古臭いはずのこのおはなしが、とても生き生きと広がって、私の中のいろいろな気持ちを引き出してくるのに気がついた。
あまりに面白かったので、家で娘にうろ覚えながら、語ってやったら、彼女も知っているはずのこのおはなしをおもしろがり、そして、私と同じようにさまざまな感想を言ってくれた。
四年も読み聞かせをやっていて、こんなこともわかっていなかったのか!と、私は驚いた。古い設定も言葉も、単純な筋運びも、おはなしの世界が広がっていさえすれば、たいした問題ではなく、むしろ、不思議な味付けにさえなり、とても楽しいものなのだということに。
語るに向く話は原則としては、はっきりした主人公がいて、はじめにこれから起こることに対する期待が生まれ、それに対する行動が起こり、ぐいぐい進んでいってクライマックスへと導かれ、最後に満足の行く結末がくるものといえるでしょう。昔話は時として再話によって損なわれていることもありますが、大体この条件を満たすものがほとんどです。
(「ストーリーテリングー現代におけるおはなしー」 間崎ルリ子 より引用〉
という一節が、講習を数回受けた後、とても納得できるものとして感じられた。
「ストーリーテリング2」へ続く
2009/7/1