ナップザックから考える合理性の問題

2021年7月24日

おちびが家庭科でナップザックを作って、それを自然学校に持って行きました。ちゃんと実用に耐えるものが作れたワケでして、今日も、それに本を入れて、図書館まで行ってきました。

ナップザックの材料は、学校で共同購入です。
いくつかデザインがあって、その中から選びます。
人と同じものを持つのが嫌なおちびは、みんなが好みそうなものを外して、地味めのを選びました。
学年で、おちびともう一人、ふたりだけがそれを選んだそうです。

それでも、彼女としては不満で、本当は、自分で生地屋さんに行って選びたかったのに・・と言ってました。
私が子どもの頃は、家庭科の制作材料は、自分でお店に行って生地を買ってきたものです。
そう話したら、ものすごく羨ましがられました。

学校で受け取った材料は、生地が寸法通りに裁断されていて、紐やループも全部必要なだけ入っていたそうです。
あとは縫うだけ、の状態で。

たしかに合理的って言えば合理的でしょうね。
ふさわしくない生地を間違えて買ってくる子もいないし、足りない余ったもない。
だけどね。
周辺にあるムダな学習ってのも、あると思うのですよ。

たとえば、生地屋がどこにあるかを調べる。
行き方を実際に確認して、行って、自分の好みの生地を探す。
それが、ナップザックにふさわしいかどうか考える。
必要に応じて、店員さんに質問をしたり、裁断を頼んだりする。
ループやボタンなどの組み合わせを考え、デザイン、色を選ぶ。
生地に印をつけ、裁断し、あまった端切れをどう活用するかも考える。

それによって、失敗したり、困ったりすることも含めて、単なるキットを受け取っていきなり縫うのと比べて、どれだけ豊かな学習ができるだろう、と思うのですよ。
しかも、出来上がったものは、たぶん、同じものがひとつとしてない、オリジナルだし。

与えられた材料を組み立てるだけでも、形としては同じ学習ができるけれど、得るものには随分差があるように思えます。
合理的でムダがない学習って、本当に正しくて良いものなんでしょうか。
面倒で、余計なことに時間をかけてしまうのは、本当にムダなことなんでしょうか。

そんなことをパルティオゼットで問いかけたら、言わんとすることはわかるけれど、我が家の環境で、個々人で必要材料を買い整えようとすると、車で国道をぶっとばして片道30分・バスと電車を使ったら一日がかりで買い物にいかなければならない、という意見を頂きました。
他にも、買い物に対して、適切なアドバイスを出来る大人がいない、準備できない子どもが出てくるかも・・など、様々な状況が想定されるようです。

時代は変わり、社会も変わりました。
子どもの買い物にのんびり付き合ってやれるような個人商店も、口をはさむ余裕のある大人もいない。
教師も、事前に説明して、正しい買い物ができたかどうかチェックして、足りない子には、学校側で買い整えてやる・・・なんて手間のかかることをするヒマはなさそうです。
それぞれが違うものを用意するのは、学校側の想定した平等主義にも反するでしょう。
しかし、そういうのっぺりとした平等主義は、つまんない画一化した教育しか出きないのだよなあ。
形だけだよなあ。
と、やっぱり思います。
思うだけで、なにもできないけれど。

合理的であること、ムダのないことは、実は子どもたちから、様々なものを奪っているのかもしれないな、と思えてなりません。

2010/1/10