121 山口晃 祥伝社
このところ、個人的山口晃ブームが起きている。この本は小林秀雄賞を受賞しているのだが、ガハクは、「なんで受賞したんだろう」と「すゞしろ日記」の中で不思議がっていた。小林秀雄賞がどのような評価によって決定されるかは知らないのだが、この本は非常に面白く、何らかの賞をもらってもぜんぜん不思議ではない。ただ、読みやすくわかりやすくおもしろいので、小林秀雄という名前がイメージする硬さは全然ない。そこがガハクは不思議だったのだろうか。
美術史というものをきちんと勉強したことがないので偉そうなことは言えないのだが、この本はあくまでも「絵を描く人間」が語るという姿勢が貫かれている。古来からの絵を、実際に描いた人の立場に立ち、何を目指し何をやりたくて描いたのかという視点で説明している。それがとても新鮮である。私は絵が描けない人間だからなおさらである。
ネタバレをせず、ぜひこの本を読んでほしいのだが、例えば雪舟の「慧可断碑図」の説明など実に面白い。私は実物を見たことがある。禅宗の僧である慧可が自分の腕を切って達磨に入門を願った伝説を描いた水墨画である。怖いシーンなのに、なぜかそこはかとなく面白みがあり、不思議な吸引力があり、しばらく見入ってしまったことを覚えている。ガハクはそれを、この絵の「莫迦っぽさ」という。なるほど。
達磨の絵は、太い枠線で描かれて、中が白く抜かれている。一方、背景は細かく描きこまれている。腕を切って差し出すという主題もすさまじいが、これを描いたのが77歳の老人だというのにも驚く。腕を差し出す慧可は横向きの顔なのに、その耳は後ろから見た「ギョウザ耳」になっており、目も横向きの顔なのに正面からの目で描かれている。達磨の目も横顔なのに正面である。部分ごとにばらばらなのに、一つの絵としてはそれが響き合っている。幕末に西洋人が「なぜ横から描いているのに目は正面なのか」と尋ねたら、日本人はしばらく見比べて「本当だ。気がつかなかった」と答えたという。
日本の画家はデッサンを知らなかったため、そのようなことができてしまう。例えば若冲などは描く対象の鳥を一年も二年もただただ見つめ、頭の中におぼえこんだのち、部屋にこもって頭の中の鳥を描いたという。結果、見ながら確かめながら描くというのとはおのずと違う絵になる。その人にとってどう見えるかを描くことは写実とはまた違う。気になったところは細かくおぼえているし、好きなものは大きく見える。写実を覚えてしまうと、逆に「どう見えるか」によって描くことは困難になる。自転車に一度乗れるようになると、乗れない人のまねができなくなるようなものだ。
というような視点で鳥獣戯画から明治以降の西洋画に至るまでの日本の美術史が解説されている。それが驚くほど面白く、新鮮である。ガハクの言語化能力にも感嘆する。描く人は、本来、絵で表現するのに、この人はそれをきちんと言葉にもできるのだ。
話は少しそれるが、先日、安野光雅の展覧会を見てきた。彼の絵は絵本で散々眺めてきたので原画を見ても同じかもな、と思いながら行ったのだが、やはり原画の力はすごかった。筆の運び、書き込みの勢い、色の濃淡などから安野氏の気配のようなものが伝わってくるのだ。何より、彼はこれを描きながら楽しかっただろうなあ、とつくづく感じるのだ。こここれを描いてやろう、と思った時はわくわくしただろうなあ、とか、ここの筆の嬉しそうなこと、なんて勝手に思えてくるのである。絵が描けるというのはなんという喜びなのだろう。最終的には「羨ましい」が私の最大の感想であった。
ガハクは、日本美術史上の様々な絵を見ながら、それを描いた昔の絵師といろんな話をしたのだろうと思う。「そうか、そう感じたんですね、そう描きかったんですね。すごいですね。ここはうまくいかなかったと思ってますよね、でもそこが好きなんですよ、私は。」みたいな会話をたくさんたくさん重ねて、絵を味わい、吸収し、受け取ってきたのだと思う。一つの絵で、何日も何週間も楽しめるほど、よく見て、良く感じ取って、しかもご自身の深い知識に照らして考え続けたのだと思う。それをきちんと言葉にして、楽しく読み手に手渡してくれる。そういう本だった。すごくおもしろかった。
