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「ポストコロナを生きるきみたちへ」内田樹 編 晶文社
中高生を読者対象として、彼らの前に開ける世界の風景がこれからどのように変わるのかその未知の領域に踏み入るに際してどういう心構えや備えをしたら良いのか、という趣旨で、30代から50代までの20名がそれぞれに書いた提言をまとめた本。色んな分野の専門家が、それぞれに立場から書いているので、テーマはばらばらだし、立場も視点もそれぞれだけど、読み手が自分なりに気に入った文章を見つけ出せるという意味ではなかなか優れものの本ではある。
私には、増田聡が書いた『「大学の学び」とはなにか』という文章が響いた。私には大学生の娘がいて、彼女は自宅から遠方の大学に一人暮らしをしながら通っている。が、今年度は「通う」ことすらできず、ただただ部屋にこもって、時にネットを通じて友達とコンタクトを取ったり、リモート授業を聴くことしかできていない。打ち込んでいた吹奏楽部の活動もほぼ出来ず、演奏会はほとんどが流れた。これはもう、「大学生であること」の意義の大半が失われた状態である、としか思えない。
ここ数十年、大学は「学生にしっかりと勉強させること」に取り組んできました。
政府は90年代以降、大学を大きく「改革」していきます。それまで事細かに規制されていた(けれども厳格には守られていなかった)教育カリキュラムを、各大学がある程度自主的に決定できるようにする一方、カリキュラムやシラバスをきっちりと整備させ、授業内容を詳細に定めることを求めました。つまり、大学を「学生に勉強させるための場所」として徹底しようとしたと言えるでしょう
その様な「改革」の実施によって何が起きたか。2010年代に明らかになってきたのは、日本の大学の教育研究水準の停滞です。国際的な大学ランキングは著しく低下しましたし、大学生の学力低下への批判は止むところがありません。すなわち政治による「大学は明示したカリキュラム通りに勉強させるところであるべきだ」という「改革」は逆効果だった、といっていいでしょう。
ここから増田は「コンテンツ」という概念を取り上げる。ひとかたまりの情報としての「コンテンツ」。それが一括して等価に扱われ、消費される時代になっていることを指摘する。かつて知識は長い格闘の末に身につけるものであったのに、今はキーボードを叩けば即座に手に入るコンテンツとして捉えられる。知識や能力をコンテンツとして捉え、「知」を商品のように取引する場に大学が変質してしまった、と指摘する。だが、本来、大学とは、勉強以外の無駄なことがむしろ本質であったし、大学は勉強するところではなかった、と彼は言うのだ。
子供時代の私にとって、学校も家庭も、どこか居心地の悪い場所であった。私はいつも何かに納得がいかずにいた。「どうして?」「なんでそうせねばならないの?」にちゃんと答えてくれる大人はめったにいなかったし、同じように疑問を感じる友達は本当に少なかった。ところが、大学に行ったら、みんな「どうして?」「なんで?」を探している。こんな小娘の私相手でも、必死に真剣に考えたことを訴えれば、ちゃんと耳を傾けてくれる大人だっている。周囲の仲間たちも、同じように何かを考えたり迷ったりしていて、一緒にどうしてか考えたり、私が思いもつかなかったようなことを言ってくれたりする。そうじゃない人とは、面倒なら関わらなくたっていい。
「ここは天国だ」と私は思ったね、本当に。生まれて初めてそういう場所を得た、と思った。授業をちゃんと受けるとか、カリキュラムをこなすとか、そういうことじゃなかった。色んな人と出会い、いろんなことをしながら、自分で考える、探す、内面を掘り下げる。それこそが、大学で得たことだ。それがいま出来ない娘が不憫だと思う。
コロナ禍に限りません。何であれ「問題を解決すること」の確かな道筋は、どこかの誰かが出来合いの答えとして示してくれるわけではありません。それは最終的には、自分の知性をもとに、自分の責任と判断で、自分自身で選び取っていくしかないのです。
(引用は「ポストコロナを生きるきみたちへ」 増田聡{大学の学びとはなにか」より)
2020/12/4