ルポ 誰が国語力を殺すのか

ルポ 誰が国語力を殺すのか

2023年3月17日

33 石井光太 文芸春秋

久しぶりの石井光太である。かつての彼の作品は、貧困や虐待などの話が中心で、ヒリヒリして痛い印象が強かった。だが、最近はもっと深いところへ踏み込んでいて「どう生きるか」に若干、方向転換(と言っていいのかどうか・・・)している。

オープニングは小学校の「ごんぎつね」の授業である。きつねのごんが、いつもいたずらをしている兵十の母親の葬儀に出くわした時の描写について、小学生たちが話し合い、発表をしている。

村人たちが集まり、葬儀の準備をしている。「よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かがぐずぐずにえていました。」

これは、常識的に読めば、村の女たちが葬儀の参列者にふるまう食事の準備をしている場面であるとわかる。だが、小学生たちはこれを「兵十の母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」などと話し合っているという。子どもたちがふざけているのかと思うとそうではない。学力レベルはごく普通の小学校でこのような意見はしばしばあるのだという。

今西祐之の「一つの花」でも似たようなことが起きるという。食糧不足で十分に食べられない子供は「一つだけちょうだい」が口癖となる。父親が兵隊になって出ていく日、持っていくはずのおにぎりをその子は「一つだけ」と行ってみんな食べてしまう。そしてまた「一つだけ」とせがんだとき、父親はゴミ捨て場に咲くコスモスの花を摘んで「一つだけあげよう」と差し出す。

この物語について、子どもたちから「駅で騒いだ罰としてゴミ捨て場の汚い花を子に食べさせようとした」「この父親はお金儲けのためにコスモスを盗んだ」などという回答が出るという。そして、それは決して極端な例ではないという。

この子たちに欠けているのは単なる読解力ではなく、それ以前の基礎的な知識である、と教師たちは言う。登場人物の気持ちを想像する力、別のことを結び付けて考える力、物語の背景を思い描く力などの欠落が問題である、と。

このように、何やらあっけにとられるエピソードからこの本は始まる。本当に?と疑う反面、そうかもしれんなあ、と思ってしまう。SNS上に見られる短絡的な発想に基づく文章や、相手の言いたいことを読み取れずに感情的に反発して起きる「炎上」、とりあえず自分が正しいと思い込んでいることだけを羅列して勝ったと思い込む「論破」などがあふれている実態を私も目にしているからである。しかも、これは子どもの話ではない。りっぱな大人同士のやり取りが、読解力、想像力の欠けたものになっていることを、そういえば私自身が痛感しているではないか。

子どもが小さい頃、すぐに手が出てしまう子が集団には必ずいて、その母親はひどく恐縮し悩むものであった。そんなとき、それは言いたいことがまだ言葉で十分表現できないからであって、ちゃんと言葉で説明できるようになるとおさまりますよ、と幼稚園の先生や小児科医が励ましていたものだ。そして、その子が言葉を多く獲得する段階で、確かに手が出る回数は減っていくものであった、はずだ。だが。成長してもなお、暴力をふるったりわがままな行動をとり続ける子はいて、そういえば、彼らの言語はひどく未熟であることが多かった。自分がいま何を感じているのか、何が嫌なのか、どうしたいのか、どうしてほしいのか。それらを言葉で説明できず「マジむかつく」「うぜえ」「クソだ」などという言葉だけですべてを終わらせようとしていたように思う。

ひどく思い悩んでいるとき、誰かにそれを聞いてもらうとスッキリする。それは、一つには、自分が何を悩んでいて、問題はどこにあり、どうすればそれを解決に向かわせられるのか、あるいは解決できないとしたらその原因は何なのか、が整理されるからだ。なぜ整理されるかというと、心の中にただ蠢いていた苦しみやモヤつきが言語という形をとって明確化され、順序だて、論理構成されるからだ。言語は心を明らかにし、問題を整理する。それができないと、いつまでも心の中は苛立ちと怒りと闇のままに取り残されてしまう。言葉で説明する、ということは自分を理解すること、自分を知ることのためにとても重要な役割を持っている。

そうした言語化、言葉で説明するという力が現代において失われつつあることをこの本は指摘している。理由は様々ある。家庭、社会、SNS、ゲーム、コロナ禍・・・。そんな中で、教育からは国語の授業数は減らされ、かつ、論説文、説明文に重点が置かれていく。家庭での会話の機会は減り続け、本を読むものはいなくなり、友達同士の会話も遊びも失われていく。

文科省が国語教育を軽んじるのは、文科省の役人たちにとって国語科などというものは取りたてて学校で学ばなくても当然に身につくようなものでしかないという発想があるからだ、と作者は指摘する。エリートたちにとって国語などその程度のものかもしれない。だが、本当に国語力を必要としているのは、高度な教育を受けられない、生きるのに困難を抱えた子どもたちである。実際に少年院や刑務所帰りの人たちに向けての基礎的な国語教育を行っている施設がいくつかあって、そこでいかに成果が挙げられているか、もこの本では紹介されている。

あらゆる教科や社会生活の基本は国語力にある、とこの本は指摘する。私も同感である。どんな学問も、社会活動も、コミュニケーションも、言語抜きには実現できない。豊かな語彙を持ってこそ、自分を知り、他者を理解することが可能になる。だが、その機会はどんどん失われている。

本当の意味の国語力を身に着けさせようとしている一部の学校の教育の様子も紹介されている。だが、それは特権的な私学の行う授業である。もっと国家的に国語教育を見直し、しっかりと言語能力を身に着けることを目指さないと社会は後退するばかりである。実際、国会答弁を見ていても、国語力の欠けた代議士先生たちの多さにはがっかりしてしまう。

だからどうすりゃいいのよ~ん、なのである。本を読もう、文を書こう、たくさん人と会話しよう。それしかないんじゃないの、と思う私である。ここでこうして、読んだ本のことをだらだら書くことで、私は私を知る、他者を想像する。それは自己満足でしかないのかもしれないけれど生きる力にもきっとつながっていくのだと、どこかでちょっとは信じている。だから、みんなも読んで、書いて、話そうよ。としか言えない私である。

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サワキ

読書と旅とお笑いが好き。読んだ本の感想や紹介を中心に、日々の出来事なども、時々書いていきます。

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