一度きりの大泉の話

一度きりの大泉の話

2021年9月29日

75 萩尾望都 河出書房新社

漫画家、竹宮恵子と萩尾望都は、1970年から1972年までの二年間ほど、東京都練馬区大泉の二階家で共同生活をしていた。その後、共同生活は解散し、萩尾望都は竹宮恵子と交流を絶った。以後、萩尾望都は竹宮の作品を一切読んでいないという。二人の関係性について、萩尾望都は考えないようにすることで心の平安を保ってきた。が、2016年に竹宮恵子が自伝本を出してから、大泉時代の話への取材が増え、ドラマ化などの話まで舞い込むようになった。断っても断っても様々なアプローチがなされるので、一度だけ、今まで封印してきたことについて語ることで、今後を静かに過ごしたい。そういう目的で書かれた本が、これである。彼女はこれを「人間関係失敗談」と言っている。

萩尾望都の作品はいくつか読んでいる。原発事故直後の「なのはな」には、何よりもそれを即座に発表する行動力と勇気に感動した。優れた漫画を描く尊敬すべき作家のひとりであると思っている。が、その作品をどれだけ知っているかというと、読んだことはあるけれど、よく覚えているわけではない。なん作品か、読んだ「ことがある」だけである。

竹宮恵子はと言うと、「風と木の詩」が高校時代にクラスの漫画好きの間で回し読みされていて、私にも順番が回ってくると当然のように読むことになった。作品の内容やストーリーよりも、年頃の女子高校生が性的な描写にきゃあきゃあ言い合っていた、という印象がある。なんかすごいこと描いちゃってるなあ、とただただ思っていた、おぼこい私であった。その後BLには全くはまらなかったので、それほど好みではなかった、ということだと思う。

萩尾望都は厳しい母親に育てられて自己主張の出来ない自罰的な人である。ここまでそうなってしまったのか・・・と読んでいて驚くほど、自己主張はせず、人に少しでも否定されると「自分が悪かったのだ」とすぐに思い込んでしまうところがある。なぜ、と相手に聞くよりは、いずれにせよ私が悪かったのだから仕方がない、と考えて、これ以上迷惑をかけないようにしなければ、と動く人である。その内省的で自分の奥深くへと潜り込んでいく思考が、きっと作品の奥深さを形成しているのだとは思う。

一方、竹宮恵子は自信家で、ナルシストである。萩尾望都とは対照的な人であるから、まあ、相性は悪いだろうな、というのは傍から見ていると分かる気がするが、それはこの作品で描かれているからそう思うだけかもしれない。当事者でもないし、そばで見ていたわけでもないからどちらが悪いなどとは言えないし、実際、どちらが悪いということではなく、相性の悪い二人が、相性が悪いことが判明するような状態になってしまった、という気がする。そして、萩尾望都は激しく傷ついて、その場から去り、全てを封印することを選んだ。

萩尾望都は竹宮恵子を責めてはいないし、その才能に敬意を評している。けれど、やっぱりこの作品が発表されたら竹宮恵子は穏やかではいられなかっただろう。何よりファンが騒然としたのだろうなあ、とは思う。私の周囲にはコアな漫画ファンはいないし、そもそもこのコロナ禍では漫画好きの友人と会うこともままならないから、そんな話は全く聞いたことがないが、おそらくファンの集うSNSあたりでは結構な騒ぎになっただろうとは思う。だとしても、萩尾望都は、発表せねばならなかった。静かな生活のために。竹宮恵子がそれをうまいこと受け止められればいいのだけど、大丈夫だったのかなあ、と老婆心で思ってしまう。

それとはきっと別の話になるのだろうけれど、萩尾望都と似た性格の身内がいて、言いたいことも言わず、じっと耐えて、心だけひとり傷つけて、我慢してしまう話をよく聞かされる。そして、私はいつもそれに苛つき、はっきり本当の気持ちを相手に話せばいいのに、と思うし、そうやって身内にだけぐじぐじ話すなよ、と聞いていてひどく疲れてしまう。疲れたりいらつくのは、実は自分の中にも同じような要素があって、それをなんとか飼いならして、勇気や努力を奮って、言うべきことは言い、主張すべきは主張しようと自分を変えてきた、という自覚が私の中にあるからかもしれない。それは、萩尾望都とは全く別の問題ではあるけれど、これを読んだ直後にその身内と長く話す機会があって、ついつい語気が荒くなり、言いすぎてしまった。そのことに、後でめげる私である。これは、極めて個人的な話。そして、トホホ、と思う今日なのである。なので、これ以上、この本について掘り下げるのは、気持ちが辛い、という現状である。やれやれ。

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サワキ

読書と旅とお笑いが好き。読んだ本の感想や紹介を中心に、日々の出来事なども、時々書いていきます。

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