「世界が完全に思考停止する前に」森達也
我が家は、ほとんどテレビでニュースやワイドショーを見ない。おちびが、嫌がるのだ。それも、ものすごく。死んだ、怪我した、燃えた、壊れた、爆発した、切った、悪化した・・・。
「怖いことしか言わないから、チャンネル変えて!すぐ!すぐ!止めて!」
少し前までは、それでもおちびが寝た後に、ニュースショーを見たりしていたものだったけれど。いつからだろう、私も見たいと思わなくなった。9.11の辺りからかもしれない。情報は、新聞とネットが中心で、もっと知りたい時は雑誌を買ったりもする。でも、テレビニュースは滅多に見ない。
この本を読んで、気がついた。全てに全面的に賛成ではないけれど、私はこの人が言うことは、良くわかるし、どちらかというと当たり前のことのように思える。でも、それを、公の場で言うことを、私は避けているのだな、躊躇するのだな、と。
たとえば、北朝鮮の拉致問題。たとえば、タマちゃんの話。たとえば、光市母子殺人事件。皇室問題。イラクの人質事件と自己責任問題。メディアが、こぞって報道する方向性と、ちょっと違った意見が私にはある。けれど、それを言おうとは思わない。言うことで起きるであろうさまざまな軋轢を思うだけで、うんざりするからだ。
つまり。社会における正義の方向性が定められていて、それと違った意見を言うことに、ハードルがある。そのハードルは、もっと以前に比べたら、相当に高くなっている。という事実に、この本を読むことで、私は気がついた。
大量の情報が流されていても、それが全てではないし、情報というのは、いつだって、ある一点からの視点に過ぎない。けれど、そんなことを言うのもむなしいほどに、同じ方向へ同じ方向へとメディアは流れている。テレビはそれが顕著だけれど、新聞だって雑誌だって似た様なものだ。それでも、まだ、ゆっくり、冷静に時間をかけて読むことが出来るだけましかもしれない。
森達也が正しい、というのではない。ただ、同じ方向に全てのメディアが向こうとしている時に、立ち止まって、「自分で」考えてみる、ということを、忘れたくない、と思うのだ。というか、思い出すのだ、これを読んで。
この一文を書くのにさえ、ちょっとしたためらいがある。その事に自分で驚いた私だった。
2008/7/11