62 赤染晶子 新潮社
「じゃむパンの日」の赤染晶子。芥川賞受賞作。若くして亡くなった作家が残した数少ない作品のひとつである。
舞台は外国語大学。アンジェリカ人形をいつも片手に抱いている、変人のドイツ語教授バッハマンが、他の教授の授業中にいきなり押しかけてきて、スピーチの課題を発表する。彼は教室の乙女たちに、血を吐くまで練習しろ、と命令する。
スピーチは「アンネの日記」の一節である。乙女たちは必死に暗唱練習をするが、どこかで突っかかり、続きを思い出せなくなる。スピーチの記憶喪失である。その練習を引っ張る麗子さまについていく主人公みか子と、怪しいうわさと共に麗子さまを仲間外れにする乙女たちの物語。
子どものころに「アンネの日記」を読んだ。何もわかっていなかった、と今になって思う。ユダヤ人であるというだけで迫害され、狭い空間に押し込められて長い長い期間を隠れて暮らす恐怖と苦悩。ユダヤ人であるという事実をも含めて、自分は何者であるかという問いと向き合う十代の少女。それが、子どもの私には理解できていなかった、とつくづく思う。
『けれども、いつかはこのひどい戦争も終わるでしょう。いつかはわたし達だって、ユダヤ人というだけではなく、再び一人の人間になれるでしょう!
誰がわたし達ユダヤ人にこんな思いをさせるのでしょう?誰がわたし達ユダヤ人を世界中の民族とは違う異質なものにしたのでしょう?誰がわたし達ユダヤ人を今日までこれほど苦しめたのでしょう?』(中略)
『わたし達ユダヤ人はオランダ人だけになることも、イギリス人だけになることも、決してできません。他の国の人間にも決してなれません。』
アンネは知っている。国籍を得たとしても、それはあくまで表面上だけのことだ。ユダヤ人は完全にオランダ人になることも、他の国の人間になることもできない。ユダヤ人であるというアイデンティティは決して消えない。ユダヤ人であるという自己認識は他の国の国籍を他者にしてしまう。アンネはオランダに移住する前に、ドイツ国籍を剝奪されている。他の国の国籍はアンネから簡単にひき離されて、ユダヤ人であるという自己をむき出しにした。(中略)
みか子の知らないアンネだった。みか子はこんなアンネを全く覚えていなかった。みか子の覚えているアンネは可憐な少女である。ロマンチックな悲劇のヒロインである。 (引用は「乙女の密告」より)
たぶん、私もこのみか子と同じように「アンネの日記」を、甘やかに読んだのだと思う。今、現実にガザで起こっていること、イスラエルのしていること、そしてそれだけでなく、私たちを取り巻く世界にある様々な民族問題や差別。それらを見るにつけ、私はいったい「アンネの日記」の何を読んでいたのだろうと、その理解の浅さに思い当たる。
バッハマン教授も、麗子さまも、血を吐くまでスピーチの練習をしろと要求する。必死に暗唱に励む少女たち。こんなふうに若い頃に外国語を習得しようとしたことが私にはなかった。語学は、受験や就職のための道具でしかなく、何かを知ったり、誰かと語り合うための武器であると認識できていなかった。そして、こんな歳になって、よろよろとラジオ英会話などで勉強し、覚えの悪さに嘆息し、外国の街角で立ち往生するのである。
そういえば、大学に入学した当時、父は私にESS(英語学習サークル)に入れと命令した。英語ができないと生きていくのに苦労する、と彼は言った。ESSを見学には行ったが、ついに入る気になれず、児童文学サークルなんぞに入った私である。先ごろ、亡くなった父の遺品を整理したら、何十種類もの英語学習テープやCD、様々なグッズがぞろぞろと際限なく出てきて驚いた。どれも第一巻か第二巻程度までしか封が切られておらず、長続きしなかったことがしのばれた。人に強要しておきながら、自分だって同じじゃないか、と笑えたし、身にもつまされた。彼もまた、外国語を覚える根性のない人であったのだ。
とまあ、そんなことをつらつらと考えさせられる本であった。根底に流れるそこはかとないユーモアが、ゆるゆると読者を最後まで引っ張っていく。この人が書くものはきっと面白かっただろうに、早くに亡くなってしまって、本当に残念なことであった。