29 ルイザ・メイ・オルコット 幻戯書房
オルコットと言えば言わずとしれた「若草物語」の作者である。実は彼女はA.M.バーナードという男性名で、「若草物語」とは全く違う、扇情的な小説を書いていた。そのひとつが、これである。
イギリスの貴族の名家に、若い女性家庭教師がやってくる。当時(1866年)家庭教師は身分の低い女性の仕事であり、名家においては召使いと貴族たちの中間に属する微妙な位置にあった。若い貴族の当主はある種の侮蔑を持って彼女を迎え入れるが、教え子となる小さな妹はこの家庭教師にすっかりなつく。病弱の母親もすっかり彼女の温かい介護に心酔する。彼女は美しい声で歌い、見事にピアノを弾きこなし、子供や老人たちを引き込むように本を朗読する。よく気が付き、お茶を入れるのが上手で、楽しい話題を提供し、それでいて、でしゃばったところがない。時間があれば近所に住む、目の弱ってきた年配の当主の叔父を訪ねて本を読んであげる。その姿に当主の若い弟はすっかり夢中になり、恋に落ちる。身分違いの恋に怒った当主は弟をロンドンへと追いやる。が、実は彼女はかつて身分の低いものと駆け落ちした爵位のあるレディの娘である、と知り、いつしか当主自身が彼女に夢中になっていく・・・。
実は、この家庭教師がレディの娘であるというのは嘘で、レディが駆け落ちした身分の低い男性の連れ子なのだった。彼女は、最も身分の高いものと結婚するという目的のため策略をもってこの名家に雇われてきたのである。彼女の策略が成功するか失敗するかは、読んでのお楽しみなのだが。
物語の中で、主人公の家庭教師は「悪役」である。なぜなら、身分を偽り、周囲の男性を策略をもって籠絡し、地位と財産を手に入れようとしているからである。だが、よく考えてみれば、美しい歌やピアノや朗読で人の心をひきつけ、温かい心遣いを見せ、明るい会話で周囲の人を楽しませるのは、まさしく彼女本来の魅力ではないか。その魅力に周囲の男性が惹きつけられ恋に落ちたとて、それが彼女の悪計に陥落したからだと本当に言えるのか?と現代を生きる私は考えてしまう。彼女がついた嘘は、ただひとつ、自分の生まれに関する情報であり、それは彼女自身の責任ではない。全く同じ人間を目にしながら、その身分が低いものではない、と知った途端に恋に落ちる貴族の当主は、むしろ人間の最も大事なものを見抜く力のない間抜けであるとしか思えない。当時の読者がどう感じながらこれを読んだかは定かではないが、作者は、大いにこの家庭教師の側に肩入れしながら書いた部分があると思われる。基本的に、彼女は悪役の位置に置かれ続けてはいるにしても、だ。
この物語は野心的で反逆的であり、権威を愚弄する姿勢を持ち、かつ、いわばハーレクイン・ロマンスのような扇情的な要素を持つエンタメ作品だ。理想的な従順、清廉、敬虔、家庭的な物語である「若草物語」を書いたオルコットが別名でこのような作品を書いていたということに、驚いてしまう。
オルコットの父は厳格な教育者であったし、母もまた、当時の価値観に基づく従順で清廉、敬虔、家庭的な人であった。そして、その娘であるオルコットは、その枠からは絶対にはみ出すことが許されなかったのだろう。
ピケットという作家が、オルコットに「若草物語」に見られる生き生きとした自然な描写がオルコットの作家としての真のスタイルなのか、と問うたエピソードがある。
「そうともいえないのよ」と彼女は答えた。「わたしが生まれつき心を駆り立てられるのは、ゾッとするようなスタイルなの。目も醒めるような空想にふけりながら、原稿にそれを書いて出版したいなあ、なんて思うのよ」(中略)
「昔からよく知るコンコードの、折り目のついた陽気さを台無しにするなんてできないわ。…それにわたしの善良な父がどう思うことか。だめね。わたしはいつだってコンコードのお行儀のいい伝統の犠牲者なのでしょうね
(引用は「仮面の陰に」巻末 訳者解題 より)
従順、清廉、敬虔、家庭的という女性の規範を抜け出るために、オルコットは男性名を使って執筆をせねばならなかった。そういえば、同じような時代に家庭教師と雇い主の恋を描いた「ジェイン・エア」もまた、男性名で発表された作品であった。当時の女性を縛る女性的な規範というものの強さは、こんなところからも垣間見える。「赤毛のアン」を描いたモンゴメリもまた、こういった女性の規範からついに逃れることができず、最終的に自殺に追い込まれていた、という事実を思い出さずにはいられない。(「赤毛のアンの秘密」小倉千加子 岩波現代文庫)
オルコットは男性名を使うことで、実はモンゴメリの轍を踏まずにすんだのかもしれない。そう思いながらこの物語を思い返すと、貴族たちを籠絡する家庭教師の姿に、いっそ清々しさすら感じてしまう私である。