72 高野秀行 有限会社AISA 高野秀行偏狭チャンネルZINE
最近ZINEに凝っている高野さんの新作ZINE。「チャットGPT対高野秀行 キプロス墓参り編」以来である。2013年から2025年まで各媒体に寄稿した国内を舞台にしたエッセイと雑誌「Number Do」に連載した表題作の水泳エッセイを収録。「三面記事小説」で少し暗黒方面へ行きかけた気持ちを盛り上げようと読んだのだが、盛り上がりすぎたというか、つい声を出して笑ってしまって、旅の車中にはやや不向きであった。
物忘れがひどくて結論が苦手、というエッセイから始まる。買い物メモを入念に作成して置き忘れてスーパーに行く、手帳に明記した取材や打ち合わせのアポイント、原稿の締め切りを忘れる。あまりにすっぽりと抜け落ちるので認知症の初期症状を疑ったのだが、なんと小六の時に書いた作文に「すぐに忘れてしまう」自分を嘆く作文がみつかった。つまり極度の物忘れは小学生のころから深刻な状況に達していたのだ。この作文は、のちに作者がADHDの診断を受ける際の証拠書類としても使われたという。
この話は身につまされる。私も高野さんと同じ傾向を持つ人間である。直前の出来事を恐ろしいほどすっぱりと忘れることが多いし、注意力がなくて思わぬケガやアクシデントに見舞われることも多い。この内なる瑕疵は、残念なことに反省や後悔によって改善されることはないので、「そういう自分」をどのように取り扱い、少しでもトラブルを防ぐにはどうしたらいいか創意工夫するしかない。私は深い共感をもってこの本を読み進めたのである。
高野氏が学生時代から長らく早稲田周辺の三畳間アパートに住み続けていたことは「ワセダ三畳青春記」でもよく知っている。辺境の地を旅してまわっている彼には、狭いとか空調がない事については何の不満もなかったそうだが、ただ、風呂がないのには困ったという。銭湯は高い。だが、区民プールなら安い。区民プールでシャワーを浴びて、それで目的は達成するのだが、ついでにバスタブにもつかるか…という気持ちでプールにも入ってみる。実は、ほとんど泳げなかった高野氏であるが、上手なスイマーの動きを観察して試していくうちに、徐々に泳げるようになっていった。こうして彼は、真夏の東京で一度も風呂に入らないという斬新なスタイルを確立し、しかも水泳もできるようになったという。良いことづくめである。
…というところから始まって、腰痛対策のため、ジムで泳ぐようになった。なかなか上達しない彼に先輩方は「高野さんは伸びしろがあっていいね」と言ってくれる。「あなたはまだ下手だね」の婉曲表現だとしても、未来に花が咲くような錯覚を与えてくれる言葉である。永遠の伸びしろマン、それが高野秀行なのである…。
人が行かない辺境の地へ行き、誰もしないようなことをして、どんな場所でもその地の言葉をしゃべり、それを面白く、深く文章化して素晴らしい本を次々に作り出す高野秀行だが、その一方では永遠の伸びしろマンであり、忘れっぽく、うっかり屋でもある。妻の大事な受賞記念式典にビーサンで行っちゃうような人でもある。なんとも深い人間味ではないか。これからもこの人の書くものを、私はずっと読み続ける。
