勇気論

勇気論

2024年7月21日

79 内田樹 光文社

毎度おなじみ内田樹センセイである。この方が神戸女学院大学の先生だったころ、たまたまご近所に住んでいた。地の利で、退官記念講演を聞きに行ったら、素晴らしく興味深く面白い話が聞けたのだった。それ以来、彼の著作を読んでいる。そして、いつも、なるほどと思う。すべてを理解できるわけでもなければ、すべてに共感するわけでもないが、この人の論旨は常に分かりやすい。深い教養と経験に裏打ちされ、かつよく咀嚼された思考に基づいているからだ。

この本は、光文社の編集者、古谷俊勝氏との往復書簡本である。雑誌「週刊金曜日」の「いまの日本人に一番足りないものは何ですか?」という問いに「勇気じゃないかな」と内田氏が答えた。それに触発されて古谷氏が、勇気について一冊書いてほしいと依頼したのが発端である。では、古谷氏から質問したり話題を振ったりして、それについて思うところを述べるという形式で書きましょう、ということで、できたのがこの本。なので雑談や、返事が遅れた言い訳などもたくさん入り込んでいて、それは臨場感もあって良いのかもしれないが、もう少しぎゅっとまとめてくれたら読みやすかったのになあ。内田センセイはこの形式が気に入っているようだが・・・。

人生に必要なのは勇気である。というのは、この本と出会う前から、私は私なりに歳を重ねる中でそう思うに至っていたので「だよねー」という気持ちであった。勇気とは何か。内田センセイは「孤立を恐れないこと」という。自分が正しいと思ったことは、周りが違うと言っても譲らない。自分がやるべきだと思ったことは、周りが止めろと言っても止めない。

私は、この「勇気」を、子ども時代、山中恒から学んだと思っている。山中恒は軍国少年だったことのある児童文学作家である。戦後、手のひらを反すように思想を翻した大人たちを見た衝撃を決して忘れなかった人である。内田センセイもまた、勇気を持てと戦中派の人たちが言った理由を戦争体験から指摘している。

じゃあ、なんでその勇気が衰退したのかというと、「少年ジャンプのせいじゃないかな」と内田センセイは答える。少年ジャンプが求めたのは「友情、努力、勝利」である。友情とは、理解と共感に基づいて成立する。全然孤立していない。でも、勇気というのは、周りからの理解も共感も支援もないところから何事かを始めるために必要な資質である。すべてはまず友情から始まるのであれば、孤立を恐れない少年の居場所はない。千万人を敵に回しても吾を通す先には、どんなに努力しても勝利はない。だから、友情が優先的に求められる世界では「吾」はただの「空気の読めない奴」として遇される。

転勤族の娘で転校を繰り返した私は、常に異分子として子ども時代を過ごし、そして常に空気の読めない子どもであった。長じて、空気の読めない大人となった。空気を読み、人に好かれ、感じの良い人だと思われることこそが正義であると信じ込んでいる母親に育てられたのだが、彼女の願いはことごとく打ち砕かれた。まあ、母自身は空気を読みすぎて、行きすぎちゃうような人だと私は思っているが。

話はどんどんズレるが、書いてみよう。年老いた母が、先日、こんな話をした。姉が、人の誘いを断るのによい言い訳が見つからないと愚痴るので、自分を言い訳に使っていいよと言ったのだそうだ。母が歳なので、様子を見に行く必要があるから時間が取れませんと言えばいい、と。で、姉はその通りに言って、誘いを断った。その断った相手に、後日会った母は「娘が週に一回様子を見に来てくれるので助かる」と話したそうだ。すると姉が「私が嘘をついたみたいになっちゃったじゃない。」と怒ったという。週に一回しか行かないのであれば、それ以外の時間は自由になると相手に分かってしまった。だから、自分が嘘つきだと思われたに違いない、と。「私が悪いと思う?」と母は私に聞いた。

姉も母もたいがいである、と私は思う。姉は、誘いを断りたいのなら、はっきり断ればいい。気が乗らない、忙しい、他にやることがある。断り方などいくらでもある。母は、自分を言い訳に使えなどと浅知恵を授けなければいい。それは、嘘をつけと教えただけである。二人とも、相手の気持ちを損ねず、それでは仕方ないわね、と思わせるような理由で断って、良い関係性を存続させねばならないという呪縛によって嘘をつくことこそが正しいと思い込んでいる。そして確かに嘘をついたのに、嘘をついたと思われる(ばれる)のがものすごく怖いのだ。

本当のことを言えばよかっただけじゃないの、「良い言い訳」などと言うものを欲しがるのが間違いだ、と私は答えた。結果、たとえ空気の読めない人間になったとしても、嘘をついてしまえば、その嘘がばれないように、また嘘を重ねることになる。ほかの人と口裏もあわさねばならない。そんなことに労苦を割いてどうするというのだ。それなら、空気の読めない奴でいるほうが遥かにましである。…という答えは、母の想像を超えたものだったらしい。絶句していた。まあ、そういうことだ。本当のことを言うのは、勇気がいる。

「うそをつかないほうがいい」というのは、人類が長い経験から、嘘をつく人は成熟しないと学び取ったからだ、と内田センセイは言う。嘘つきは「自分は本当は何が言いたいのか」という問いを自分に向けることがない。そして、その問いを自分に向けるのをやめたら、人間はもう成長できない。なぜ人に成熟が求められるのかというと、未熟な人は集団を危険にさらすからである。

今の日本社会で、「ちょっとまずいんじゃないか」とうすうす思っていても、それを正直に言うよりは、黙って満額の退職金をもらって、下請け企業に天下りして、そこも穏便に退職し、その後に事故が起きるのなら、その方が個人的にはありがたい。と、感じることこそがより正直に生きていることになる。「俺は嘘をつくことによって、自分が本当にしたいことをして、本当に言いたいことを言っているのだ。だから俺は正直者だ」と人は嘘をつくときでさえ自分に言い聞かせる。

「自分が本当に思っていること、感じていることを、自分の言葉で語る」のは実はかなり困難な事業である。正直であるために、知性的・感情的な成熟が必要になる。そういう考え方をする人は今の日本ではすごく少なくなっていて、むしろ逆に「言いたいことを抑圧しても、思っていないことを口にしても、それで権力や財貨や地位が手に入るなら、わが身の安全が保障されるなら、自分の思いを口にしない事こそが自分に対して正直であることだ」という未熟で歪んだ正直観を持つ人たちが、今の日本のマジョリティを形成している。…と内田センセイはいう。

「自分の言葉で語る」ことの困難さと重要さについては、鶴見俊輔が同じようなことを語っていた。「紋切り型の言葉に乗ってスイスイものを言わない。自分が生まれた時からずっと使い慣れてきた言葉で書いてゆけば、自分の肉声をそれに乗せることができ、人のペースに巻き込まれない表現ができてくる。」自分が本当に思い、感じているのは何なのか、それは突き詰めるとどういうことなのか。深くものを考えなければ、耳障りの言い、人に届きやすそうな、どこかで聞きかじったような言葉に頼ることになる。でも、それは本物ではない。お飾りの、見てくれのいい、一瞬、自分を守るかもしれないけれど、借り物でしかなくてあとで襤褸の出る言葉でしかない。だからつたなくても、あいまいで間違いやすくても、自分の言葉で考え、語ることこそが重要なのだ。そして、それは正直であることであり、勇気の要ることでもある。

というわけだ。鶴見俊輔も、内田樹も、同じようなところにたどり着き、かくいう私も、レベルは違いすぎるけれど、正直に生きること、勇気を持つことが大事だという所には何とかたどり着いた…様な気がする。それだけのことに気が付くのに、こんなに年月がかかったのだなあ、と遠い目になってしまうが。いろいろ個人的なことに引き付けて考えこみながら読める本であった。表紙がヨシタケシンスケなのも、いいね。