61 岡本茂樹 新潮社
題名が悪いよ。というのが最初の感想。だが、内容は読むに値する。なので、なんだこれ、と思わないで頑張って読んだほうがいい本では、ある。
筆者は社会学者だが、刑務所での累犯受刑者の更生支援に携わっている。重大犯罪を犯した受刑者と向き合う中で、更生のためには反省させてはいけない、ということに気づいたという。反省を求め、反省をさせるという作業がむしろ受刑者をさらに悪くさせること、反省させない方法こそが真の反省をもたらすことを発見したという。
何言ってんの、と思うだろう。まず、自分のしたことを反省するところからのスタートでしょう、と誰もが思うから。だが、それは事態を悪化させる。という。それを読んで、私は「言葉を失ったあとで」を思い出した。あの本でも「被害者がその性的虐待でどれほど傷ついたかを加害者が認識することは、再犯防止には実は役に立たない」という事実が指摘されていた。被害者の傷やつらい心情を理解しようとする作業は、実は無意味であるばかりか、むしろ、そこまで相手に影響を及ぼすことができたという悪しき達成感が獲得されてしまう危険性すらあるのだ、と。おそらく、それと同じことをこの本も言っているのだ、と私は思った。
この本においても、このような記述がなされている。
刑事政策を含む社会政策に関する国際的な評価研究プロジェクトであるキャンベル共同計画によると、被害者の心情を理解させるプログラムは、驚くべきことに、再犯を防止するどころか、「再犯を促進させる可能性がある」という結果を報告しています。(引用は「反省させると犯罪者になります」より)
受刑者に反省を求めると、立派な反省文が書けるようになる。自分がしたことがいかにひどいことであったか、それによって被害者がどんな苦しみを受けたか、被害者のみならず周囲の人にどれだけ自分が迷惑をかけたか、それもこれもすべて自分の弱さゆえであった。これからは、自分の弱さを向き合い、罪を悔いて、まじめに立派に生きていくため全力で頑張る、と。だが、それは、「上手な反省文が書けるようになった」だけのことであり、それによって彼らが再犯しなくなるわけではないのである。
受刑者の更生プログラムにおいて、本音で話をしてほしいと求めると、そんなことができるわけがないと言われる。本当のことを言われると悪く言われるし、看守からの印象も悪くなるし、仮釈放も望めなくなるし、ほかの受刑者からも何を言われるかわからないからだ。だが、本音を一切言わず、自分の感情を押し殺し、まじめに刑務作業を務めて刑期を終えたとして、出所後に、人とうまく関われるわけもない。心の中に押し殺された本音がたまりにたまって爆発するのも時間の問題である。実際、受刑者の大半は、実は自分の犯した罪について反省してはいない。まじめに努めていることで罪を償っているのに、なぜこの上被害者のことまで考えなくてはならないのか、というのがむしろ彼らの本音である。そんな状態からどう脱するのか、こそが大事なのである。
筆者が更生プログラムの授業において、受刑者に本音を言うことを求めると、「殺してしまったの悪かったけど、相手も悪かったんですよ」という言葉から出発することすらあるという。「あいつだって周囲に散々迷惑をかけていたんだから、殺されても仕方ない、俺もあの時は大変だったんだ。」などという言葉が出てくることもある。だが、それを否定しないで最後まで語らせる。その時、自分の中に何があったのか、そこに至ったのはどんな経緯だったのか。そして、そもそも彼はどのように育ってきて、どのような気持ちを抱えて生きてきたのか。そうしたことを丁寧に語らせるうちに「だけど、考えてみたら、それでも殺すことはなかったんだ。あいつにも、親や妻や子がいて、俺が殺してしまったことで、みんなに辛い思いをさせたんだな。そうか、俺が悪かったんだ。」と初めて気が付いたように語りだすこともあるという。
つまり、筆者の主張は、被害者に思いを致す以前に、まず、やってしまった自分自身の内面と向き合うこと、自分を知ること、自分が何を感じ、何を思っていたのかを明確に認識することこそが、最終的には再犯防止につながっていく、というところにある。それは、先に述べた「言葉を失ったあとで」において、被害者がどんなに苦しかったのかを理解させることは無意味である、と書かれていたことと確かにつながる。たとえばDV加害者は、DVを行ったことで自分自身にどのようなデメリットがあったのか、それによって自分自身がどんなに生きにくい人生を作り出しているのか、という側面からの理解ができない限りDVを止めることはない、というのだ。
結局の処、人は、他者を理解する前に、まず自分自身を理解するところから出発するしかないのかもしれない。そして、自分を大事にすることなしには他者を大事にすることはできない。他者がどう思うか、どう感じるかを第一義に置くのではなく、ほかならぬこの私自身が何を考えているのか、何を感じているのか、どう生きたいのかをしっかり見据え、理解し、受け入れたうえでしか、他者と確かにつながるということはきっと難しいのだと思う。
それにしても、安易に反省を求めて、表面上きれいに整えたところで、それに何の意味もないどころか、むしろ悪影響さえある、ということは、教育界においてもっと広く理解されるべきことのように思う。罰を与え、ごめんなさいと謝らせてそれで終わり、ということでは問題は何も解決しない。なぜ、そんなことになってしまったのか、を各人が内面と向き合って気が付くこと、自分の内面や感情を知ること。そこからしか出発できないということに気が付いている教育者はいったいどれほどいるのだろう。というより、私自身も、子どもを育てるうえで、そういうことに気が付いていたのだろうか。改めて考えこむ本ではあった。
それにしても、題名はよくないね。脅し文句みたいだしね。