名著の話 芭蕉も僕も盛っている

名著の話 芭蕉も僕も盛っている

60 伊集院光 KADOKAWA

「僕とカフカのひきこもり」以来の「名著の話」第二弾である。今回は、松尾芭蕉「おくの細道」、ダニエル・デフォー「ペストの記憶」、コッローディ「ピノッキオの冒険」を取り上げている。

「おくの細道」では「古池や蛙飛こむ水のおと」の「や」がどんなにすごいか、を最初に論じている。「古池に」じゃない、「古池や」だからすごいんだ、ということを俳人の長谷川櫂が説明している。そして、彼の解釈が、のちにとある資料で証明された時の感激と言ったら!俳句って深いなあ、とつくづく思う解説である。そして、ボーっとできる人が詩人である、という結論に、そうだ、素晴らしい、と頷いてしまった。

「ペストの記憶」は「ロンドン・ペストの恐怖」という題名で読んだことがある。たぶん、翻訳者が違うんで邦題が違うんだろう。作者も内容も同じだもの。ドキュメンタリーだったり、冒険小説だったり、いきなり数字が並ぶ資料的要素があったり、ジャンルが定かでない本だ、と最初に伊集院が言っている。だが、それこそがデフォーなのだ、という説明には納得する。コロナに関しても、このように何か物語なり記録なりが書かれるべきだ、という意見に賛成。資料的な要素だけでなく、その中で人々がどんな風に受け取っていたのかを、笑いや皮肉やパロディなどの要素も含めて、作品として残すことに意味がある。

最後の「ピノッキオの冒険」。今の子供たちは、ディズニーのピノキオしか知らない、という前提にまず驚いた。私は原作の翻訳を子供時代に読んでいたからなあ。と思ったら、この解説を担当した和田忠彦氏が「講談社の『少年少女世界文学全集 南欧・東欧編』で『ピノッキオの冒険』と『クオーレ』を読んだ」と言っていた。私と同じだ!そして、優等生的なクオーレよりも、ハチャメチャなピノッキオのほうが好きだった、というのまで同じだ!

ピノッキオは、そもそも作者が借金で首が回らなくなったので、しょうがなくて子供向けの物語を書き始めたのが最初だ。借金が返済できたので、主人公をいきなり死なせて終わらせちゃおうとしたら、子どもたちの嘆願がいっぱい届いたのでしょうがなく生き返らせた、というめちゃくちゃな事情が背後にある。善人が善人として登場しなかったり、悪人が悪人ではなかったりしするし、主人公もいっぱい間違って、いっぱい失敗する。そこが面白いのだけれど、ディズニーでは最初から「いい子にしていれば、いつか人間になれる」というまっとうなストーリーに挿げ替えられている。ちがうよなー。

で。この本のすごみは、あとがきにある。本当はもっと早くに出版できるはずだったのだけれど、最後の作業の段階で、師匠である円楽が亡くなって、伊集院は仕事ができなくなる。本当に、何もしたくなくなるのだが、どうしようもなく、考えもせず、金沢に旅に出る。鬱と躁の状態で、よくそういうことがある、と彼はいう。その旅先で、思いがけない出会いがあって、師匠の死を始めて受け入れた。そこで滞在を伸ばして、最後の作業を一気に済ませた。これはもう、ぐっとくる話である。

伊集院の書くものは、いい。けれど、もっといいのは彼のしゃべりである。彼のラジオを、私はずっと聞いていたい。デオドランドされていない、生の人間の業にあふれたおしゃべりを、聞き続けたい。そう願っている。

カテゴリー

サワキ

読書と旅とお笑いが好き。読んだ本の感想や紹介を中心に、日々の出来事なども、時々書いていきます。

関連記事