134 青木海青子 晶文社
「不完全な司書」がとても良かったので、その続編ともいえるこの本も読んだ。これもまた、ここを起点として様々なことを考えることができる良い本であった。
前作では、言葉を選ばずに言えば、どこか弱い感じもあった作者が、この本ではかなり落ち着いてしっかりした強さを見せている気がする。だからこそ少しずつ自身の過去も振り返ることができているような印象がある。そして、読む側もまた、一緒に前を向き、自分を受け入れて行けるように思えた。
作者の姿勢や思考の在り方が、奈倉有里さんに似ているなあと思っていたら、本当に奈倉さんの本が紹介されていた。この「文化の脱走兵」(講談社)からの引用は、私も胸に刻んでいた言葉だ。
「戦う勇気ではなく、逃げる勇気を。なにかのため、だれかのために犠牲になっていい命など、一つとして存在しない。」
作者が、日本各地の平和記念館を見て、戦争や差別が、まるで自然災害のように展示されていることに強く違和感を持ったことも書かれている。これは、私が小学校の教科書における戦争の在り方、たとえば「ちいちゃんのかげおくり」や「一つの花」に対して強く感じていたことと同じである。弱いものが抗えない悲しい不可避の出来事として、教科書に戦争が提示されている。正しい戦争であると信じ、自ら望んで戦地に行った人が、上官から殴られ、同じように妻も子もいる生きた人間である敵と殺し合い、最後は飢えに苦しんで死んでいくという現実は決して示されない。戦争は人間が引き起こすものであり、本当はどこかで阻止することができたはずだったのに、それを怠ってきたということを決して教えようとしないのだ。
福祉施設の中で起きる虐待を「その人じゃなくて環境が悪い」っと言った、京都府宇治市の地域福祉センター副センター長、村上さんの言葉(「らせんの日々 作家、福祉に出会う」ぼくみん出版会 安達茉莉子)も心に残る。人手不足や超過勤務の状況をそのままに、働く人に「利用者さんへの優しさが足りない」と感情論、根性論で責任を転嫁することへの問題提起である。人を追い詰めるような環境を放置しておきながら、結果として起きてしまったことに対して個人だけを責めるやり方は何も解決しない。それは、私自身が子どもを育てるときに何度もはっと気付き、深く恥じたことでもあった。たぶん、社会における様々な犯罪にも同じようなことが言えるはずだ。個人の優しさを求め、うまくいかないことはすべてその人自身の問題にする自己責任論の冷酷さ、解決しなささをつくづくと思う。
‥‥権力の身体への介入は、政治の標語を見ていれば全て察知できるわけではない。むしろ私たちが注意を向けるべきは、一見自発的になされるように見える言動が、権力の介入を受けていること。『あなたのため』を装いながら、権力が身体に介入してくることである。
(「コロナ禍と出会い直す 不要不急の人類学ノート」磯野真穂 柏書房からの引用)
これもまた、大きく頷く言葉だったのだが、おお、これは「急に具合が悪くなる」の磯野氏ではないか!と気がついた。磯野さん、とてもいいことを言ってらっしゃる。いつか誰かに「あなたのためにあなたがあなたであることを手放しなさい」と言ってしまわないために、社会にある「標準」を問い直していこう、と作者は静かに言う。これは、私がこれから老いていき、周囲に迷惑をかけながら生き続けていくことを考えるとき、まさしく自分ごとでもある問題だ。
最後に、信田さよ子氏の「家族と厄災」生きのびるブックス からの引用も、強く心に響いた。
玄関の扉を閉めた途端に、人権概念は通用しなくなってしまう。狭いコンクリートのマンションの一室で繰り広げられる凄惨な虐待は、親にしてみれば遊び感覚でペットをいじめて笑うことと違いはないのだ。人権などそこには存在せず、我が子なのだから思うままにできると思っている。悲惨な子ども虐待事件が報道されるたびに、家族の中では人権はないという現実が、今でも変わっていないことを痛感する。親はいかなる理由があろうと、子どもという存在の権利を侵してはならない。
これには続きがあって、家族におけるこのような被害と国家間の被害は相似形であることが指摘されている。大国が弱小国に侵攻し虐殺を起こしても罰せられないという現実は、まさしく同じである。今、世界のあちこちで起きていることは、家庭というブラックボックスの中で起きていることと同じであり、地続きであるというところから私たちは考え直し、そこから出発すべきなのだと思う。
なんだかものすごく色々なことを考える一冊であった。その中には、私が若いころ、読み終えて口もきけないほどの感動を味わったプロイスラーの「クラバート」の物語もあった。今読み返してもあれほどの強い感動は戻ってこないのだが、当時の私には衝撃だったのだなあと思い返している。
良い本であった。いつかルチャ・リブロに行ってみたい。
