11 内田樹 朴 東燮編訳 アルテスパブリッシング
韓国版がオリジナルで、それを翻訳したのがこの本。韓国で結構人気の内田樹の本を本書の編訳者でもある朴 東燮氏が企画し韓国で出版、ベストセラー入りしたものを日本でも出版した。内容は、内田氏が様々なメディアで書いたものを集めてあるので既視感のある文章も多い。彼は、そもそも自分の著作についてはどこに引用してもよし、と公言している。自分の主張をできるだけ多くの人に届けたいという彼の姿勢には共感する。
子どものころ、私は本なんて年に数冊しか買ってもらえなかった。一学年上の姉も一緒に買ってもらったから、自分の本と姉の本を繰り返し繰り返し読んだ。子ども時代の読書は何十回も読みなおすのが基本であった。図書館に初めて行ったとき、ここは天国だと思った。こんなにたくさんの読んだことのない本が並んでいて、どれを読んでも良いなんて。読んでも読んでもまだ初めましての本が並んでいて、夢かと思った。小学校高学年から中学生くらいまで、私は図書館に浸り、毎日何冊も借りて帰り、読み漁ったものだった。
何で図書館には人がいないほうがいいんだ?と本書の題名を見て不思議に思ったが、思い出せば、私の入り浸った図書館にも人は少なかった。静かな広い空間に、ただただ本が並んでいた。動きのない空気の中で、息を詰めるように並ぶ背表紙を見つめ、ドキドキしていた。
内田氏は、欧米では功成り名を遂げて古くからある大きな屋敷を買い取った人たちは、その前の持ち主の蔵書に囲まれて暮らさねばならないという暗黙のルールがあったんじゃないかという。書斎で仕事をしていてふと顔をあげると、自分の読んでいない本がずらっと並んでいる。たぶん死ぬまで読まない本。そういった何千冊もの本が「お前はホントに無知だね。だから思いあがるんじゃないよ」とメッセージを無言で送ってくる。人が謙虚を忘れないための重要な装置としてそれがあった、と。
私は図書館に行くと、自分とは全く無縁なジャンルの書棚を見て回る。経済も、物理学も、化学も、地質学も、私は何も知らないけれど、それらの背表紙を見ているとワクワクしてしまう。この世にはまだこんなに私の知らないことがある、わからないことがある、でも、それを知ってわかってこんなに本を書いている人がいる、ということが世界の広さと深さを教えてくれてドキドキしてしまう。
図書館は、もしかしたらそういう思いを味わうためにあるのかもしれない。永遠に誰も読まないかもしれない本が、そこにいるとたくさん並んでいる。そのこと自体に、大きな価値がある。というようなことを内田氏は繰り返し語っている。そうだ、本は読まれなくとも、そこに「ある」だけで深い価値があるのだ。
図書館が民営化され、効率よく本が読まれ、利用者が増えることを目標とされるようになった。回転数の少ない本は奥にしまわれ、長年読まれない本は廃棄されていく。でも、それって図書館の本来の意味とかけ離れていることなのではないか。効率よく合理的に本を読むことだけが図書館の目標ではないし、人がわんさか押し寄せて、ベストセラーを奪い合って読むのが良い図書館でもない。静かな穏やかな空気の中で、ドキドキしながらじっくり背表紙を眺めて歩く。そこで得られる深いものの価値こそが、図書館の存在意義なんじゃないだろうか。
本屋が失われていく。我が家のすぐ近くにあった頼りがいのある大型書店は昨年なくなってしまった。悲しい。でも、本屋がなくなっていくのを悲しむ人はこの世にまだまだいて、そういう人たちが、全国で小さなひとり書店を作ったり、お金を集めてひっそりと新しい本屋をたてたりしている。うちの近くにも、本当に小さな書店が出来た。本の数などたかが知れているが、店主が何を思い、どんな風に本を読んでほしいと願ってこの店を立ち上げたのかが、背表紙を眺めただけで伝わってくるような本屋である。カフェもあって、コーヒーを飲みながら本を読んでいる人もたまにいる。そうやって、人々の本への愛は消えない。本の存在価値は支えられる。それを嬉しいと心から思う。
どうか図書館が効率化、合理化、経済化の波に飲み込まれませんように。読まれない本も大事に大事に並べられる場所でありますように。と、祈る思いでこの本を読み終えた。