166 三浦しをん 新潮社
木を伐ったり、辞書を作ったり、義太夫を語ったり、いろんな職業の人を描いてきた三浦しをんだが、今回は書家である。老舗ホテルに勤める主人公の続力(つづきちから)は催し物の招待状作成の依頼をきっかけに、ひとりの筆耕士と知り合う。力とほぼ同い年の書道教室を営む遠田薫である。彼は、愛想はないが、素晴らしい字を書き、また、子どもたちへの指導力もなかなかである。遠田との関係性の中で、力は様々なことを学び、そして、最後には遠田の秘密にもかかわることとなる。
力が初めて薫の家を訪問した時、子どもたちは「風」という字を書いていた。漠然と書く「風」は面白みがない。手本なんか参考程度でいいから、文字の奥にあるものを想像しろ、と薫は言う。そして、教室の窓という窓を開け放つ。熱と埃っぽい庭土の香りが室内になだれ込み、暑気を切り裂いて一陣の風が吹き抜ける。今感じたことを思い浮かべながらもう一度「風」って書いてみな、と言う。素人目にも、窓からの風を感じた後の生徒たちの字は生き生きと躍動して見えたことに、力は気づく。
良いエピソードである。そういえば私は子ども時代、いくつも習い事をやっていた。いや、やらされていた。書道もその一つである。何しろ、母方の祖父が書道教室の教師なのである。毎週、母の実家に連れていかれ、机に向かって筆をもった。私は書道が嫌いであった。なぜ、何のために筆で文字を書くのか、いや、書かされるのかが分からなかった。ちゃっちゃと書き上げて、さっさと遊びに行きたかった。厳格な祖父には、「なぜ、サワキはいつもそんなにきょろきょろするのか。なぜ、じっと紙に向かえないのか。」と叱られた。きれいな字を書くと級が上がって、書道誌の昇級者名簿に名前が出る。年子の姉は、すいすいと級を上がって、四年生の時には初段であった。確か私は四級だったか。昇級試験に提出する作品は、祖父のお手本を下に敷いて、その上からなぞらされた。バランスのとれた形良い文字が書けたが、それは私の字ではない、と思った。たぶん、採点者も同じように感じだのだと思う。相変わらず級は上がらないままだった。級が上がることに、どんな意味があるのか、それはそんなに良いことなのか。私にはわからなかった。なぜ、なんのために。どんな意味があるのか。思えば、それを教えてくれる人は一人もいなかった。
なんて子ども時代を思い出しながら、続きを読んだ。才能があるけれど、どこか世間離れしている薫と、人の良さだけは誰にも負けない力の関係性が、少しづつ動いていく。それがとても面白かった。周囲を動く書道教室の生徒も、薫に飼われている猫も、とても良い働きをしていた。
人が生きること。その人自身が自分の人生を生き生きと思うがままに生きること。生きる意味を自分が知っていること、見出すこと。そんなことを、今、私は思う。この物語は、それを描いている。今、私が筆をもったら、もう少しましな字が書けるかなあ。少なくとも、あのころよりは自分らしくかけるような、そんな気はしている。