65 奈倉有里 イースト・プレス
友人が褒めていた本。読んでみたら、素晴らしかった。
作者はロシア文学研究者にして翻訳家、ジャーナリスティックな文章も発表している文学博士である。語学好きで趣味でドイツ語やスペイン語を学ぶ母親に触発されてロシア語を勉強し始め、二十歳になる頃にはロシアに飛び、いくつかの学校を経てロシア国立ゴーリキー文学大学を日本人として初めて卒業。その間のロシアの日々のエピソードを中心に書かれたのが本書である。
かつてのアエロフロートのいい加減さ、恐ろしさは、それをまさしく経験した友人の話で知っていた。作者も、飛ぶはずのアエロフロートが欠便となり、見ず知らずのおじさんと息も絶え絶えに代替便を探してペテルブルグに到着する。乗客の座っていない椅子がバタバタ前のめりに倒れるような機体であった。
テロが頻発し、チェチェン問題が起き、貧富や宗教による人々の分断が進む中、彼女はひたすらにロシア文学を学び続ける。日常は酔いどれながらも、強い情熱をもって、教科書もなしに、怒涛のように語り続けるアレクセイ・アントーノフ先生との出会い。講義のすべてをノート上に再現しようとする作者。
驚いたことに、いちど清書してしまうとそのノートからは、いつひらいても先生の声がした。声質を覚えているとか、イントネーションがわかるとか、そんなものではない。引用したセリフのどこに熱を込めて語ったかも、話の途中で取られた間合いも、言い淀んだ箇所も、ちょっと笑ったところも、すべてがそのまま再生されるのである。幻聴じゃないかと思うほどはっきりと。そうして私は、清書した講義ノートを開くだけで何度でも繰り返し授業を受けられるのだった。
学ぶということには時々これが起きる。良き師、良い講義、良い学びとの出会いは滅多にないが、ひとたびそれに出会うと、何度でも反芻することができ、そして、いくらでもそこから学び取れる。そんな奇跡的な瞬間があるから、人は学ぶのだ。
「学問の子になりたい」と彼女は当時の日記に書いていたという。鉄腕アトムか、と自分で突っ込んでいるが、まさしく彼女は学問の子であった。学ぶということの豊かさ、深さ、大切さが、身体に沁み込むように伝わる本である。私がなぜこれほどに本を読むのか、読みたいのか、何を知りたいのか、何を考えたいのか。それへの解のひとつがこの本には書かれている。生きるということと、本を読むこと、学ぶことの大事なつながり、意味、その力が書かれている。
私は無力だった。サーカスの子どもたちに対して、ドイツとロシアの狭間で悩むインガに対して、毎日のように警察に尋問されて泣いていたイラン人の留学生に対して、目の前で起きていく犯罪や民族間の争いに対して、兄弟的な国家だったはずのロシアとウクライナの紛争に対して、すぐ近くにいたはずのマーシャやアントーノフ先生に対してさえーここに書ききれなかったたくさんの思い出のなかで、私はいくら必死で学んでもただひたすら無知で無力だった。いま思い返してもなにもかもすべてに対して「何もできなかった」という無念な思いに押しつぶされそうになる。
けれども私が無力でなかった唯一の時間がある。彼らとともに歌をうたい詩を読み、小説の引用や文体模倣をして、笑ったり泣いたりしていたその瞬間ーそれは文学を学ぶことなしには得えられなかった心の交流であり、魂の出会いだった。教科書に書かれるような大きな話題に対していかにも無力でも、それぞれの瞬間に私たちをつなぐちいさな言葉はいつも文学のなかに溢れていた。(中略)
文学が記号のままではなく人の思考に近づくために、これまで世界中の人々がそれぞれに想像を絶するような困難をくぐり抜けて、いま文学と呼ばれている本の数々を生み出してきた。だから文学が歩んできた道は人と人との文脈をつなぐための足跡であり、記号から思考へと続く光でもある。もしいま世界にその光がみえなくなっている人が多いのであれば、それは文学が不要なためではなく、決定的に不足している証拠であろう。 (引用は「夕暮れに夜明けの歌を」名倉有里より)
文学は、言葉という道具を介して、見知らぬ場所の見知らぬ人、遠い昔に死に絶えた人、思想も宗教も文化も風習も違う人と繋がりあい、理解し合い、助け合い、分かり合うことができる光のようなものである。私たち一人一人の短い生の期間を照らしだす力がある。それを今一度思い出せるような本であった。
明解でわかりやすく美しい文体だった。それなのに、すいすい読むこともできず、何度も何度も立ち止まり、時間をかけて読みたい、そんな本であった。