113ジョエル・レヴィー 創元社
食卓で夫が何かの拍子に「元素を周期表に並べると似た性格が並んでいくって面白いと思わない?」みたいなことを言った。「あ、それ、私知らない。」と思った。周期表がどういう法則性で並んでいて、それを覚えることにどんな意味があるのか、私はこの歳になるまで知らなかった。化学の授業を全拒否したからだ。化学のテストは何一つわからなかった。なぜ、留年もせずに高校を卒業できたのか、今となっては謎ですらある。
私の高校は国文学に特化されていた。とりわけ古典の授業は実に高度であった。どんなに出来の悪い生徒でも、古語の助動詞活用を全員が言えた。古典に関して言えば、一切の受験勉強をしなくても、たいていの受験問題は軽々と解ける程度に叩き込まれた。その一方で、理系は悲惨であった。数学は雨が降ると休講になる。数学教師のYシャツは紙でできていると噂された。雨で溶けちゃうから来れないのね。
化学はもっと凄かった。授業開始と同時に化学の教師は、一言もしゃべらずに黒板に向かい、延々と何やら文章を書き続けた。端から端まで長々しい文章を書き連ねた後、「問題」と「解答」が添えられた。彼はただ、これだけを言った。「説明を読んで、ノートに書いて、問題を解きなさい。」そして、あとはただ、黙って教室の隅に佇むばかりであった。
私には意味不明の文章であった。何を説明しているのかもよくわからなかった。それを読んで書き写したからと言って、その下にある問題が解けるとも思えなかった。要点をまとめるでもなく、解説があるわけでもない。ただ文章をそのまんま書き写すことに、私は意味が見いだせなかった。私は授業が聞きたいのであって、何かを書写する時間が欲しいわけではなかった。
何度かそんな「授業」が続いた後、私は授業終了後に化学の教師を廊下で追いかけ、質問をした。「これが、何を言っているかよくわからないし、この問題の解き方もわかりません。教えてください。」彼は、まじまじと私の顔を見、しばらく考えてから、ゆっくりとこう言った。「それは、試験には出ない問題なので、わからなくても、かまわない。」
愕然とする私を置いて、彼は去った。私は猛烈に腹が立った。彼は、教える気がない。わからなくていいと言った。教師がわからなくていいと言ったのだから、私は化学をわからなくていいのだ!それ以降、私は化学の授業を全拒否した。別に出ていったわけではない。授業中、周囲の生徒と、机の下で五目並べをしたり、トランプをしたり、時にはおやつを食べたりした。一応、教師に見つからないように、だ。見つかったところでどうということもなかっただろうが、当時の私はそれがせめてもの礼儀であるとは考えたらしい。一年間、私は一切の化学学習を拒絶し、それで化学の履修は終わった。赤点を取った覚えがあるが、留年には至らなかった。どうしてだったのか、記憶がない。
同級生も、あの授業で何かがわかるという生徒はほとんどいなかったと思う。少なくとも私の友達はみんなそうだったし、なんというか、あきらめていた。私立大学付属の高校で、おとなしく振舞っていれば上の大学に行けるという無気力さが皆の中にはあった。多少の向学心のある子も、もともと文系だったので、理系科目は形ばかりのアリバイでよいと踏んでいたところがある。私自身もその中に含まれていた。また、本気で理系を目指す子たちは、自力で学んでいた。上の大学ではない他大学を目指した私も、古典以外の科目はすべて自力で学習したので、それはよくわかる。高校でありながら、国語以外の授業は当てにできない学校だったのだ。
というわけで、私は恐ろしいほど化学を知らない。若干似た経路で、実は世界史もそれほどは知らなかったのだが、それは、娘の高校時代に二年間かけて勉強した。そして、その世界史学習が、どんなに自分の世界を広げてくれたかに感動した。(それを書くと長くなるけど、世界史の知識は、海外の旅に数倍の楽しさを与えてくれたからね。)化学だって、たぶん知っていたらもっと世界は広がるのだろうと思った。
などと言う話を、夫の周期表の話をきっかけにべらべらしゃべっていたら、夫が図書館から借りてきたのが、この本である。副題は「錬金術から周期律の発見まで」。古代世界の化学から始まって、錬金術から元素へ、そして原子やイオンの話へと歴史をたどり、主要化学者の人物像を交えながら、物語的に進行する。時々、簡単な計算問題なども登場するが、丁寧な解説もついている。時間はかかったが、ちゃんと読み終えた自分に感心した。なるほど、化学ってこういう歴史で作られたのか、と思った。そう、歴史的把握ができたのだ。でも、計算問題はできないし、たぶん、高校生に戻っても、テストで良い点は取れない。取れないけど、化学がどんな流れで発展し、何を目指して、誰がどんな苦労をしたのか、はわかった。周期表がどんな原則で並べられ、周期的によく似た化学的性質のパターンが繰り返し現れることもわかった。それってすごい、よくできてる、とも思った。思えてよかった。
この年齢になって、今さら化学の試験問題がスラスラ解けるようになろうとは思わない。この本で知識を得ただけでも、ずいぶんと私の世界は広がったのだろうと思う。でも、難しいよね。イオンとか電気分解とかモルとか。(そういえば、化学の教師のあだ名はアボガドロであった。)もう少し、わかるようになったらいいかもな、と思っている。子供向けの化学の本でも探してみるかな。この本を見つけてくれた夫には感謝したい。