27 森下典子 PARCO出版
映画「日日是好日」の公開に合わせて執筆されたもの。もとになったのは、作者が五十代のころに数年にわたってつけていたノートである。お茶の稽古の記録だが、季節のめぐりの記録でもある。
子どもたちが独立して夫婦二人の生活になり、私たちもゆったりと散歩なんぞができる身分にもなった。毎朝歩いていると、自然の美しさに胸打たれることが多い。昨日までは固く閉じていた花芽が少し膨らんでいたり、この間まで見なかった子ガモが川で戯れていたり、足元を銀色に光るトカゲが走り抜けたり。暑い日は木陰が助けてくれ、寒い日は日差しのある道がありがたい。季節のめぐりの豊かさと美しさに今頃になって初めて気づいた思いである。
この本は、お茶のお稽古の話なのだが、そこには季節の移り変わりが色濃く描かれている。お茶はただ立てて飲むものではないのだと教えられる。季節を感じ、心を落ち着かせ、互いに交流しあいながらその場の空気を共にする。美しいもの、清々しいものと出会い、楽しみあう。それはまた、様々な気付きの場でもあるのだ。
私にはお茶をたしなむ友人が何人かいるのだが、その人たちはみなどこか落ち着いた雰囲気をもち、また、深い思考と教養をもち備えている。それが羨ましくて、私もお茶なぞ習ってみようかとも思うのだが、どうも私の身体に甘いものは合わない。そこがネックである。
習い事というのは良い。そのことをこの本はさらりと指摘していて、はっとさせられる。
年を重ねた大人が、できない自分を晒して生きられる場所があるのは、幸せなことだ。この社会では、みんな失点を恐れ、弱みを見せまいと硬い鎧をまとって生きている。
だけど、ここでは、いくつになっても、一生徒なのだ。先生に間違いを直され、注意を受けながら、お点前を繰り返す。それは何十年やっても終わらない。お点前は季節ごとに変化し、上に行けば、さらにその上がある。
完璧になることは多分ない。私たちは不完全な、間違える生きものだ。
でも、もしかすると間違えることができるから、自由でいられるのかもしれない。
(引用は「好日日記」森下典子 より)
