72 鈴木忠平 文芸春秋
「最後の角川春樹」と並行して…というよりは、こちらの本を先に読み始めていた。途中で出かける用事があり、読みかけの本を持っていくと読み切って時間を持て余すのではないか、と考え、角川春樹を連れて行ったら先に読み終えてしまった。結果、圧倒的にこの本「嫌われた監督」のほうが面白かったし、落合博満という人間に魅力を感じた。まあ、比較対象の相手にすべきことではないのだろうけれど。
私は、二十代までは野球も割に見ていた。とりわけ甲子園は好きで、何度も行った。学生でなくなってからはプロ野球もたまに見ていた。息子がオリックス時代のイチローのファンだったのでそれに付き合ったりもしていたが、いつの間にか急速に興味をなくし、以後、まったく見ていない。
だから、落合が監督だった時代の中日をオンタイムで全く見たことがないのだが、そんなことは問題ではなかった。野球というスポーツに何ら興味のない人間でも引き込まれ、夢中にさせるような本であった。それは、落合という人間の魅力にもよるのだろうし、それをずっと見続け、考え続けた筆者の力にもよるのだろう。
落合が監督をしていた2004年から2011年までを、各年度ごとに一人または二人程度の選手にスポットライトを当てながら、監督が選手にどんな影響を与え、何を考えさせたのかを描いていく。多くを語らず、ただ黙ってみている監督が、たまに発するわずかな言葉から、彼らはどう変わっていったか。それが鮮やかに描き出されている。
落合という人間は、情に流されず、人とつるまず、ロマンより技術を重んじ、冷徹に勝利だけを求める。これまで頑張ってきたのだから、あいつをここで降ろさないでください、と全選手が懇願しても、冷静に交代を命じる。一度それに流されて失敗して、自分の選択ミスだったと心に命じてからは二度と同じ過ちを犯さなかったという。
観客が喜ぶヘッドスライディングを、危険だからと禁じた。そういう情熱的なプレイをむしろ喜ぶ野球人が多い中で、怪我がないことを第一とした。体罰を禁じ、自己判断、自己責任を求めた。けがや不調の時は、本人に行けるかどうかを判断させ、無理をさせることもしなかったが、本人が無理をしていただけの時は、自己判断を誤ったとして切り捨てた。選手は、誰かに頼ることなく自分で判断し、自分で見つけることを求められた。一人一人の選手をいつも同じ場所で見つめ続け、わずかな違いを見落とさなかった。たった一言言われた言葉をずっとかみしめて、その意味が分かったときに覚醒する選手も多くいた。
落合は孤独な人間であった。誰とも深くかかわりあわず、一人で考え、一人で決めた。その代わり、いつもそばに妻と子供を置いていた。彼の本当の味方は、家族だけだったのだろうか。表情に出さず、どんなに嫌われても意に介さず、論理で突き詰め、卓越した技術を持った彼は、家族だけに支えられる天才だったのだろうか。
私は体育会系が苦手である。スポーツにおける根性論や、集団主義や、自己犠牲や、厳しい上下関係や、勝利へのロマンといったものすべてが苦手である。だが、落合の姿からは、私の嫌いなスポーツ臭というものがしない。そういったものすべてをそぎ落としたところに彼はいて、だからこそスポーツ至上主義の野球人から疎まれ、嫌われたように思えてならない。
高校時代、彼は高校の野球部の集団主義や体罰になじめず、学校をサボっては近所の映画館に入り浸っていたという。出席日数が危うくなると学校に出向き、そうすると野球部から助っ人を頼まれて、試合に出れば誰よりも活躍したという。そういう屈折した学生時代に、何とも親しみを覚えてしまう。
生まれ変わったら、もう野球には近づかず、映画でも見て暮らす、と落合は言ったという。なんかわかるわあ、と思ってしまった、何のスポーツもできない私である。