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「子どもたちの遺言」 谷川俊太郎・詩 田淵章三・写真 佼成出版社
生まれたばかりの、取り上げられたばかりの赤ちゃんの写真で、この本は始まります。
そうだ、こんなだったんだ。しわくちゃで、真っ赤っ赤で、何かに怒ったみたいに泣いてたんだ。
赤ん坊の写真を見ると、それだけで、泣きたいような気持ちになります。
それから、写真は、まっすぐな目をした、幼児になります。
わたしひとりぼっちじゃないよね
とその目が言います。そう、ひとりぼっちじゃない。子どもは、ひとりぼっちになってはいけない。いつも安心して、誰かに守られているものだ。
でも平気 友だちいるもん ひとりじゃないもん
それから三歳になり、四歳になり。
私が幸せなだけでは世界は良くならないと思うのです
という子どもになります。
そして、もっと大きくなって、ハタチになります。
子供の写真を見ているだけで胸打たれてしまうのは、私が歳をとったからかもしれません。写真に添えられた谷川さんの詩も、心に染み入るようです。子どものころ、私は大人が「子どもの素直な心」とか「まっすぐなかがやく瞳」なんていうのが嫌いでした。子どもは素直じゃないし、まっすぐでもないと知っていたからです。
でも、今になってわかるのです。まっすぐじゃない、素直じゃない子どもの真っ直ぐさ、素直さが。その場その時をひたすらに生きている子どもは、意地悪でひねくれて狡猾であっても、やっぱりまっすぐで素直です。けれど、それは意図したものではないので、その場を生きる本人には、わからないのでしょう。
私は以前、大学生に、大人って、大人ぶってる、と言われたことがあります。偉そうだ、物知りぶってる、と批判されたのでしょう。
そうかも知れません。私は、大人ぶってるのかもしれません。でも、思うのです、子どもの頃の私、高校生の私、大学生の私、大人になったつもりの私、少し前の私。どれも、今の私とは違っています。偉ぶるわけでも、大人ぶるつもりでもないのだけれど、歳を経てきたからわかることもあるのです。許せることもたくさんあるのです。その時には怒ってしまったことでも、今でなら、笑えることも、たくさんあるのです。
私は今の私が好きです。でも、若いころの、幼い頃の私を、愛おしく思っています。間違ってばかりで、傷ついてばかりで、噛み付いてばかりで、意地悪してばかりの、その頃の私が、愛おしくてならない。
子どもの写真を見て、泣きたくなるのは、単なる自己愛にすぎないのかもしれませんね。でも、一方で思うのです。子どもも私も同じじゃないか。その小さな、これから成長していく小さな子どもも、私も、同じ生命だ。私が私をいとおしくおもうのも、その子を可愛いと思うのも、全部ひっくるめて、私は命が愛おしい、と。
ああ、なんだか老人の繰り言のようになってしまいました。小さな子どもの前で、私はどんどんおばあちゃん化してしまうようです。まずいな・・・まだ、中学生の親なのに。
そんな妄想に浸ってしまうような、写真詩集でした。好きだわ。
(引用部分は「子どもたちの遺言」より)
2012/10/30