116 小川洋子 講談社文庫
「遠慮深いうたた寝」以来の小川洋子である。やっぱりこの人はいいなあ。この作品は2020年度「英国ブッカー国際賞」最終候補作だって。確かに国境を超えた普遍的なものが描かれている。
秘密警察による記憶狩りが行われていて、人々の記憶が徐々に消滅している島。何かが失われた日、人々はそれにまつわるすべてのものを焼却する。そして、それを忘れていく。それを忘れずにいる人や、隠し持つ者は捕まり、どこかへ連れ去られる。主人公は小説家である。彼女の担当編集者は、「忘れない人」である。彼女は彼を隠れ家に隠す。だが、次々に大事なものは消えていく。ついに「小説」までもが。
大切なものとその記憶がどんどん失われ、消えていく日々。たとえば、老いていく母は、こんな気持ちなのだろうか、と思ったりもする。私たちが大事だと思っていた、決して手放さないと誓っていたはずの平和への誓いがだんだん薄れ、消えていくような、この現実の日々を思ったりもする。人と会い、好きなだけ話ができた環境が、ある日突然に失われた出来事を思い出したりもする。当たり前のように手元にあるもの、何の不思議もなく持っていたはずのものが失われていき、時としてそれに気が付かない。そんなことが、私たちの本当の生活のなかにも、こうやって起きている。ということを思い出したりもする。
小川洋子の妄想はどこまでも深く、広く、そして、とてつもない場所にまで連れて行ってくれる。この人の作品は、本当に見事だ。私は、この人の世界が好きだ。
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