9 近藤史恵 中央公論社
「筆のみが知る」以来の近藤史恵。久しぶりだなあ。この本は夫からのお勧め。これを私に勧めてくる夫であることを嬉しく思うよ、いやホントに。
賢くて行動力があってフェアな女性である妻が、ある日娘を連れて家を出てしまった。そして、テーブルに置かれた離婚届と、一年前からの主人公の行動のレポート。早く帰るように頼んだのに帰らなかった、娘の面倒を見る約束をしたのに朝から出かけて夜まで帰らなかった、酔って帰ってきてむすめ用の乳酸飲料を三本飲み干してしまった‥‥。些細なことの積み重ね。こんなことで離婚を要求されることなどない、と彼は思う。思うが、白旗をあげた。それからのすさんだ生活を見かねて、妹が勧めてくれたのが山の上の家事学校である。
寮に入り、家事学校で家事を学びながら、主人公はいろいろなことに気がついていく。些細なことと思っていたのが、決して些細ではなかったこと。気づいていないだけで、たくさん妻を傷つけていたこと。家事をすること、生活することの意味。そして、娘や家族という存在の大事さ。社会で家事がどんな位置づけにあるかということ。
なんだか身につまされる物語でもある。必死に子どもたちを育てている間、心にあった空しさも思い出す。子どもを育てることも、家族のために家事を引き受けることも、自分で選んだことだったし、一生懸命やったけれど、どこかでつまらない思いがあった。それを吹き飛ばすためにいろんなことをやったし、それはそれで私の栄養にもなった。でも、しなければならないことが常に喜びになったわけではない。なんでこんなことをやらねばならないのだろうと思ったことも何度もあった。だけど、家族が大切で、自分ができること、やるべきことをわかってもいた。それでも、大変ではあったのだ。そんな日々の思いがよみがえる。
夫が仕事をやめて、これからの生活がどうなるのかと思った。夫の毎日の昼食づくりが負担だという友達の声も多かった。毎日一緒にいて、日々の生活がどうなるのだろうとも思った。だが、予想外にそれは明るく楽しい日々となった。自分一人のために何かを作る気がしなくて、いつもいい加減だった昼食が、少なくとも楽しめるものになった。バランスよく、おいしく食べようと思えるようになった。一緒に楽しめる料理を作りたいと思った。私が作れば夫が洗い物をしてくれたし、掃除は一緒にやった。長年培った私のやり方と、合理精神でやろうとする夫のやり方が食い違うこともあったが、そこは互いにすり合わせ、あるいは交代でやりたいようにやり、良いところを認め合って、いつのまにかスタイルが出来上がった。私が出かけると、帰宅時にはご飯が出来ていた。買い物も一緒に行くようになったし、片付けや家電の出し入れも夫が率先してやってくれた。整理下手の私よりもよほど手際よい夫であった。つまり、夫には生活力があり、家事をおろそかにしない精神があった。そこだよ、そこ、と私は思った。
山の上の家事学校も、家事の技術を教えながら、実は生活すること、家事を行うことの大事さ、尊さを教えているのだと思う。人は何か立派なことをするために生きているのではなく、毎日の同じような生活の積み重ねの中で、少しづつ偉大な何かを成し遂げることもある、それだけなのだ。ちゃんと生きること、ちゃんと生活すること。それをおろそかにして、人生は成り立たない。…というようなことを、いつのまにか読み取れるような、良い物語なのである。
「これはきっとサワキが気に入るよ」と、この本を私に手渡してくれた夫に感謝する。