108 宮野真生子 磯野真穂 晶文社
この本を原作とする映画を見た。すばらしかった。どうしても原作を読まなければ、と思った。読んだら、映画とは全く違った。でも、これも素晴らしかった。この本から、どうやってあの映画に昇華されていったのか、考えたくなったし、脚本家や監督に聞いてもみたくなった。映画とこの本との共通点は、末期がんでいつ急に具合が悪くなるかわからない哲学者と、文化人類学者の短いかかわりの中で交わされた深く美しいやり取りであるということ。
これは二人の往復書簡集なのだが、死が間近に迫った人と、それを知りつつ、今、だからこそ彼女の思いを聞いておきたい人とのやり取りにしては、明るくユーモアにあふれている。野球好きな二人の野球談議も学者っぽくてそれがむしろ面白い。
末期がんの当事者である哲学者、宮野氏は、それでも自分ががん患者であることだけを生きているわけではないという。そんな宮野氏が、どのように今を生き、何を考えているのかを、文化人類学者である磯野氏は率直に、そして深く考え、問いを発する。同情や悲しみではない、理性と深い友情にあふれた二人のやり取りに、私は時にハッとし、時に考え込み、そしてすべては自分の問題でもあることに気づき、身につまされもする。
宮野氏は各自の物語性に他者が巻き込まれることを警戒する。それゆえに、主治医に母親が治療法について「先生が家族だったらどうしますか」と質問したことを嫌悪する。だが、磯野氏は、それが嫌なのか!とむしろ驚きもする。思うに、医師は仕事として医師の役割を担っているのであって、患者の家族ではない。もちろん、家族のように思いやり、患者の立場に立って診療を行うことは誠実なことかもしれない。だが、家族には家族の文脈がある、物語があり、歴史がある。そこを踏み越えてほしくないと考える宮野氏の感覚もわかる。
私自身もある種の持病を持っている。それは遺伝性を多く持つ病態ではあるが、私の親戚家族に同じ病気を持った人はいない。なぜ私がその持病を抱えるに至ったか、成育歴などから追及してみればいくつかの思い当たる節がないわけではないが、それが本当に原因であったかどうかはわからないし、思い当たるすべての要因をクリアしたところで同じ結果があったのかもしれないとも思う。また、その治療法においても、いくつかの選択肢を、私という人間をいくつかに分けて少しずつ試して比較することもできない。そこにあるのは偶然だとしかいいようがない。
元気いっぱいに見えた人が、あある日突然事故死したり、くも膜下出血で倒れて戻らぬ人となる場合だってないとは限らない。人は、誰もがある偶然性の中に生きており、死は身近にあるけれど、その中で、予定を立てたり、約束をしたりして生きているものなのだ。
患者と医師、元気な人とそうでない人、病気の人、何かができる人とできない人。そういう分け方をしてラベルを貼ることで失うものがある。人との関係性で、このような態度をとることこそが正しいというものも存在しない。
つらつら書いてきたが、うまく感想がまとまらない。宮野氏は最後まで勇気をもって自分の人生を生きたし、磯野氏は立派にその伴走を果たした。そして、私達もまた、皆、最後の時は来るし、それまでは、自分の人生をできる限りしっかりと生きるしかないのだろうと思う。何かのラベルを貼らず、自分らしく、あなたらしく、私たちは生きていこう。
