108 岸見一郎 扶桑社
「これからの哲学入門」以来の岸見一郎である。四年ぶりかなあ。岸見さんは、どうやら大病を患って生還されたご様子。その後もお父様の介護に携わったりしてなかなか大変な日々を送られていたようだ。
表題の「数えないで生きる」。コロナ禍、誰もがいろいろなことを数えてばかりいると指摘したのはイタリアの小説家パオロ・ジョルダーノである。感染者と回復者、死者の数を数え、危機が去るまであと何日か数える。それに加えて、たとえコロナ禍でなくても人は何かにつけ数えて生きている、と岸見氏は書く。安定した人生にはどのくらいの年収を得ればいいのか、そのために偏差値がどのくらいの大学に入ればいいのか、あと何年生きるのか、貯金はいくらせねばならないのか、などなど。
岸見氏は、日々を価値あるものにするためには数えることすら必要ないと書く。老人は残りの人生が短いことを当然のこととして受け止めているので、数えないのだ。手がけた仕事が完成しなくても、それも想定内である。成功は量的だが、幸福は質的である、という三木清の言葉が引用される。成功を求めてやまない人は何かにつけて数えるが、質的な幸福は数えることができないのである。
わかるなー。と、この歳になった私はしみじみする。もはや成功などはどうでもよろしい。日々、おいしいものを食べ、楽しい会話を楽しみ、きれいな景色を見て、興味深い本を読めば、十分幸せである。でも、若い頃はそうは思えなかったなー、とも同時に考える。今、この時の幸せだけを願い、味わい、生きるのは確かに質的な幸せであろうが、目の前に課題があり、あるいは育ちつつある子どもがいる状態では、明日を思わずにはいられないし、いつまでに何をしなければならないか、数えずにはいられなかった。なかなか悟りは開けないものだ。
まあ、だとしても。胸に沁みる言葉はいくつもある。
他者からの期待に合わせるために生きる人は、自分の人生を生きられない。
何かができてもできなくても、人間の価値はそのことには関係がない。何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかなのだ。
幼い子どもが親からの不断の援助がなければ生きていけない。お腹が空いた時やオムツが汚れて不快な時は泣いたり大きな声を出す。大人はそれを聞いて、子どもが何を求めているかを察し、子どもが必要としているものを与える。
しかし、子どもはただ大人から与えられるだけではない。子どもも与えることができる。何をか。幸福である。子どもが何もしなくても、大人はこの子どもの存在によって癒される。子どもは活きているだけで貢献しているのである。(中略)
何かをすることでも貢献できるが、生きることでも貢献できるのである。何もできなかった子供は将来働くことができるので価値があるが、高齢や病気のために働けなくなったら価値がなくなるのではない。子どもも大人も生きていることに価値があるのである。そのように感じられた時、人は幸福であることを実感できる。 (引用は「数えないで生きる」岸見一郎)
いやはやほんとうに。テストで良い点を取ったり、大金を稼いだり、人から称賛を受けるために人は生きていない。そういうものを得てもなお、満たされず、幸せを感じられない人だっている。生きていることそのものに喜びを感じ、価値を感じられるとき、人は本当に幸せだと思えるものだ。長い時間をかけて、私はそれを学んだと思う。教えてくれたのは、家族であり、多くの友人や仲間であり、たくさんの読書であった。みなさん、ありがとう。
