136 河合隼雄 さくら舎
文化庁長官も務められた偉大な心理学者であった河合隼雄氏の最晩年の講演と随筆を収録した本。出版化が決まり、ご本人が加筆修正していたが、諸事情で本になっていなかったものを2026年、ついに書籍化したとのこと。内容は2002年当時のものが中心なのでずいぶん昔の話である。
この人はある種の天才だったと思う。天才過ぎて跡を継ぐ者がいないんじゃないかとも思う。彼の著作は何冊か読んだ。わかりやすい言葉で丁寧に書かれているし、しかもいつもユーモアが込められている。だが、最終的に、では、どうしたらいいのか?と呆然とする。私にとってはそういう人だ。
彼のテーマの一つは日本の神話であった。国のアイデンティティを語るとき、神話がその軸になるという話である。日本の神話の特徴は中空構造にある。三貴神と呼ばれるアマテラス、スサノヲ、ツクヨミのうち、アマテラスとスサノヲは活躍し、多くの物語が残されているが、中心にいたはずのツクヨミの話はない。この世の初めにアメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒという三柱の神が生まれ、タカミムスヒとカミムスヒは物語によく登場するが、中心であるはずのアメノミナカヌシは何も触れられない。海幸、山幸で知られるホデリとホオリの話は有名だが、三つ組みの神をなすホスセリは名前しか出てこない。つまり、日本の神話は中心を大事にしながら、その中心は何もしない。
中心は無為だけれど全体が調和してうまくいくという構造を河合氏は「中空均衡構造」と名付ける。中心がないからこそ仏教、儒教、自然科学などをうまく取り入れつつ、社会や生活習慣を変えてきたことや、強力なリーダーシップに頼らずにきたこと。それによって調和や美を大切にしてきた歴史が日本のアイデンティティにつながっていると指摘する。だが、中心が何も決めないからこそ、誰も判断ができず、責任も取らず、なんとなくその場の空気で物事が決まっていき、それが先の大戦の大きな痛手にもつながったことも同時に明確に指摘している。
キリスト教という一神教を背景にした中心統合型構造を持つ欧米文化は、強力なリーダーシップとはっきりした自己主張を表す。それを単純にまねしたり、それこそが正しいというべきではない。が、かといって、日本の固有のありかたにとどまることも正しいとは言えないと河合氏はいう。これからは中心統合型と中空均衡型の両立を図っていくべきではないか、というのが彼の提言である。
真ん中に据えられたけれど、実際には何もしないリーダーというものがかつて確かに存在したし、たぶん今も存在するのだろう。それが日本的な社会の調和を保ってきたという事実もまた確かではあろう。だが、今の国のリーダーは…彼女は何の根拠も理由も示さずにじゃんじゃん判断し、決定し、しかも責任を取っていない。これはどういうことだ。中空構造はどこへ行った。これを読みながら、私はうなってしまった。
強力なリーダーは日本においては大成しない、と河合氏は断言している。最大の例は織田信長である。また、先の大戦においては、実は、海軍で強いリーダーシップを持ち判断力に優れた士官が何人かいたのだが、彼らはみんな失脚して認められなかった、とも書いている。彼らの優れた判断をアメリカは恐れ、米軍の資料にはそれが残されているが、そういう人間は日本においては評価されず、退けられている、と。
であるなら、今の「強力な」リーダーも早々に退けられてほしいものだ、と思わずにはいられない。河合隼雄氏がご存命だったら、今、何を言われるのだろう。
