89 近藤康太郎 本の雑誌社
本の書評を書くことについての本。
私は、このブログを書評だとは思っていなくて、単なる感想文、あるいは読書記録と認識している。この歳になると、何を読んでどう感じたか、書いておかないと忘れちゃうのでね。既読のはずの本について誰かと話すとき、なんか読んだことがある…と思ったら、自分のブログを検索する。そうすると、あら読んでた、そうか、そう思ったのか、と思い出せたりする。それを目指して書いている。まあ、それだけじゃなくて、同じ本を他の人にも読んでもらって、できうるならば感想など言い合えたらすごく楽しいんだけどなあ、という欲望も渦巻いてはいるんだが。
この本の最初には、AIに試しに書評を書かせてみるという試みがされている。自著を、柄谷行人風に書評して、と指示したら、なんと、書評のていをなしていたという。私もやってみた。少し前に書いた「クジラがしんだら」を「続・サワキの読書日記」風に感想を書いてみて、と頼んだのだ。そしたらやってくれちゃった。えー、私、こんな文体?とは思ったけど、自分の子が小さい頃の思い出なんかも交えて、実にそれっぽいことを書いてあった。でも、実際にここに私の書いた感想とは、かなり違った。私は、この本でAIみたいに我が子の小さい頃を特に思い出さなかったし、「しんだら」という言葉にショックも感じなかった。まあ、そういうことだ。生身の私とは違う感想文にしかならない。当たり前だけど。
この本の著者は、AIの書く書評には、発見の興奮がなく、正確さへの倫理観(気恥ずかしさ)がなく、体験に基づく汗がない、と指摘している。確かにそうだ。「クジラがしんだら」で私が一番興奮した発見にAIは触れていなかったし、読んだとき、私は海が見える場所にいて、深海がなんだか身近に思えた。そういう感覚は、AIにはなくて、なんとなく外側から見ている感じがした。だから、AIに私っぽい感想が書けるとしても、やっぱり私が書くことに意味はある、と思った。
プロのライターになるつもりなんてない、ただ、インスタグラムなんかで少し気の利いた書評を書いて、読書好きの人とつながりたい。そういう人もたくさんいるんでしょ?私はね、とってもいいと思うんだ。そういう人がたくさん出てくれば、このくだらない世の中も、少しは風通しがよくなる。生きにくい社会がちょっとはましに思えてくる。
私は、気の利いた書評を書こうとは思ってないけど、読書好きの人とつながりたいとは本気で思ってる。だからこの一文には打たれた。
今の世界で最も足りないのは、いい言葉。誠実な言葉です。
それっぽいこと、もっともらしいことは書かなくてもいいから、愛をもって誠実に言葉を探して書く。それなら私にもできる気がする。実際には、もっと難しいことがこの本には書かれている。本を読んだら傍線を引き、ページの端を折り、数カ月たったら見返して、残したい言葉を抜き書きする、とかね。これは、図書館本に頼っている私にはできないことだ。確かに、それくらいするとぐっと深まるよなあ、とは思う。読んでいて、これは覚えておきたいなあ、抜き書きしたいなあ、と思う言葉に出会う。たまにそういう場所にしおりを挟んだり、付箋をつけたりして、それはブログを書くときに役立つのだけれど、数カ月寝かせておいて抜き書きする、ところまでは、とてもとても。
私はプロではないし、書評を書いてお金をもらっているわけではないので、そこまでできないわー、とも思ったが、でも、そういう姿勢があったら、きっと得るところは大きいのだろうとは思った。本当に好きな本、ほんとうに良いと思った本はちゃんと購入して、そんな風に咀嚼することも考えてみよう、と思いはした。
(引用は「本をすすめる」近藤康太郎 より)
