58 小池静子 現代書籍
「グロリア・ソサエテ」で興味を持ったので、柳宗悦の妻にして声楽家の柳兼子の評伝を探して読んだ。「グロリア・ソサエテ」は京都時代の柳夫妻が中心に描かれており、時代的にも民藝館設立前までの話であった。その前、二人の生い立ちから恋愛時代、結婚後、民藝館設立とその後の運営、そして宗悦が亡くなり、兼子も亡くなるまでの様々なエピソードが兼子の弟子によって描き出されているのが本書である。
「グロリア・ソサエテ」では、兼子がドイツに留学するにあたって宗悦がかなり反対し「君はエゴイストだ」とまで言いながらもついに折れて半年間の留学を認めたことが載っていた。自分の熱中する民藝運動に兼子を巻き込み、やりたい放題やっておきながら、声楽に人生をささげる兼子の願いを「エゴイスト」と言ってしまうのはずいぶんだなあと感じた。時代が違うから、今の感覚で物事をジャッジするのは違うとは思う。だが、本書を読むとその思いはさらに強くなった。
本当なら、兼子はもっと長くドイツにいたかったのだ。様々な困難を乗り越え、やっとリサイタルを行い、多くの興行主が彼女に今後の契約を申し込んだところで、宗悦から「早く帰れ」と矢の催促。「また来るから」という約束はついに果たせなかった。そして彼女が帰国したのち、今度は宗悦がアメリカに旅立ち、一年以上帰らず、ハーバードで得た給金も最初の二、三回程度しか送ってこなかった。兼子は必死の思いでアメリカに追いかけていくこととなった。やっと着いたアメリカには女性の影があった。
その後も民藝館設立のために経済面からも、準備にも身を尽くした兼子とろくに会話も交わさなくなった宗悦は、お気に入りの女性を民藝館の運営に携わらさせ、兼子を遠ざけた。空襲で民藝館が焼けかけた時、兼子は皆で必死にバケツで水をかけ続けたが、宗悦は茫然としていたという。朝食で何が気に食わなかったのか味噌汁を兼子の着物にぶちまけ、急いでいた兼子がそのまま出かけることすらあった。亡くなる前も、兼子が病室に運ぶ食べ物に手を付けず、口もきかなかったという。
宗悦の死後、兼子は国立音楽大学で教鞭をとり、演奏会も行い、多くの賞も受賞した。だが、息子の宗理が民藝館館長となったのが、一番喜んだ時だという。80歳を過ぎてからレコーディングを行い、高い評価を受けたというから大したものである。
前向きで、気が強くて、自分の思う通りに生きたように言われる彼女だが、実は夫のためにずいぶんと我慢してきた人でもある。家事育児を一手に担い、いきなり押し掛ける客人たちに料理をふるまい、見境なく書籍や民藝を買い集める宗悦のために経済的なやりくりも引き受けた。だのに、人生の後半部分では、尽くしても尽くしても冷たい扱いを受けた。なんだかなあ、と思わずにはいられない。
なんだかなあ、の最も最たるものは、実はこの本の題名である。なんで「柳宗悦を支えて」なのか。声楽家として、日本の音楽の育ての親としても大きな功績のあった彼女である。民藝運動に対しても同様に力を注ぎ、その一部を支えた人である。柳宗悦という夫を支えたのではなく、民芸運動を支え、民藝館の設立に貢献した人である。副題の「声楽と民藝の母」が最もふさわしい。なんで題名が「柳宗悦を支えて」なんだ?私は大いに不満である。
とはいえ。兼子の死後、若いころの宗悦からの二百通以上の熱烈なラブレターが発見されたというのは、なかなか楽しい話ではある。その存在のおかげで彼らについて何冊も本が書かれたわけである。まさかそんなことになるとは、柳宗悦は夢にも思わなかったことだろう。
