歴史を学ぶと言うこと(その2)

「歴史のテストって、教科書の本文に書いてあるようなことは出されないで、配られたプリントの端っこが出されるんだよね」と息子が憮然とした顔で言っていました。そういえば、私が学生の頃もそうでした。教科書の隅っこに小さい字で書いてあることや、資料集の写真脇のさりげない解説などからよく出題されたものです。

歴史って、結局、ディテールの積み重ねだからね。と言ったら、ふうん、と不満そうな顔をして、それから話題は、彼お得意の、歴史って、何で勉強しなくちゃならないんだろうね、というものに移って行きました。

こいつは、自分が勉強しなくちゃいけない状況に追い込まれると、すぐにこういう事を言い出します。ごちゃごちゃ抜かしている暇があったら、年号の一つも覚えろ、と言いたいところですが、実は、私もそういう話が嫌いではない。必要ないと思うなら、しなくてもいいんじゃない、君がその結果を甘んじて受け入れるんならね、なんてぶつぶついいながら、気がつくと、私も乗せられてしまっています。

化学も、数学も、物理も、社会学も、何人もの優れた学者が一生をかけて得ることができた真実を、教科書に数ページずつ、分かり易く解説してある。だから、今を生きる私たちは、その学者たちのように優れていなくても、一生をかけなくても、真実を手に入れることができるし、そこから出発できる。そういう意味では、あらゆる学問は、歴史の積み重ねの果てにあるものだし、それらを学ぶことは、実は歴史を学んでいることでもあるんだと思う。つまり、あらゆる学問の根幹に、歴史があるのかもしれないね、なんて話していました。

娘の通う小学校では、六年生が卒業する前に、校長先生が、社会科の授業を二時間、担当します。PTAの仕事をしていたおかげで、昨年度はその授業に招待されました。
ペリーが初めて浦賀にやってきたとき、最初に彼と会って話をしたのは、幕府の役人と通詞の二人でした。歴史の教科書に、彼らの名前は載っていません。でも、彼らがいなかったら、それからの歴史はなかった。校長先生は、その二人の生涯を調べ、地図や写真を使って解説をしていました。歴史とは、有名な人や、優れた力を持つ人が作っているどこか遠くの物語ではない。日常を過ごすふつうの人々が支え、作っているものであって、君達が生きている今という時間の流れや、この地平と確かにつながっている、身近なものなんだよ、と。いい授業でした。

また別のあるとき、息子が「ヘンリー八世ってN(息子の悪友です)に似てるんだよね」といいました。「押し付けられるのが嫌いで、新しいことをしたがるし、すぐあっちこっちの女に手を出すし、わがままだけど、どこか憎めないし、抜けてるところもあるし、で、結局、やりたいようにやってるんだよね。」と。たしかに、N君、そういうキャラです。ちょっと言いすぎだけどね。で、具体的にどんなところがN君だと思ったの、と聞くと、息子、とうとうとヘンリー八世の業績を話してくれました。つまり、ヘンリー八世が彼の中で生き生きとした姿を持ったので、その生涯が、理解し易く、手にとるようにわかったってことでしょう。

何年か前に「徳川将軍家十五代のカルテ」(篠田達明)を読みました。歴代将軍の身体検査やメディカルチェックを現代医学から行い、具体的にどんな人だったかをカルテに起こしてあるのです。名前と業績でしか知らなかった将軍達の、身長や死因を知るだけで、ずいぶんと人間味が増すものです。五代将軍綱吉は、124センチしかなかったんですってよ!

話があっちこっちに飛びましたが、結局、歴史を作り上げているのは、ふつうに毎日を過ごしている生身の人間だって事です。どんな人間だったのか、何が好きだったのか、苦手なものは何だったのか、どんな恋愛をしたのか、悩みは何だったのか。ゴシップや、スキャンダルが、歴史の本質を表すことだってたくさんあります。歴史を知ることは、人間を知り、理解することでもあります。そしてまた、それは、学問の根幹でさえも、ある。そう思うと、歴史を学ぶって、なんだか面白いと思いませんか?

息子ではない、とある高校生と「勉強はすべきか?」なんて討論をする機会をたまたま得て、いろいろ考えているうちに、どんどん私の思考はあさってほうに飛んでいってしまい、そうして、ここに書いてみたくなったのでした。

2007/5/25