111前田隆弘 中央公論社
大学時代の後輩Dが亡くなったとDの元カノから連絡があったところから話が始まる。大学時代、ファミレスでただただ無駄話をし続けた相手だったD。社会でうまく働けず、最後はパチプロになって、お金もなくて、彼女にもフラれて死んでしまった。Dの死をきっかけに、いろいろな死を思い出す作者。父親の死、知らないおばさんの死、親しかったライターの死。Dの両親が住む種子島までDの話をしに行って、逆に生きるエネルギーをもらって帰ってくる話。内容が死に溢れているので、途中で休まないと読み続けられなかった。
興味深く、心惹きつけられるものはあったのだけれど、死は、私には重い。若い頃の、遠くにある死ではなく、ごく身近にあって、いつ、「やあ」とやってくるかわからない死は、本当に重い。高齢の母に、明日訪れるかもしれない死。想像するだけで苦しくなる、大事な人の死。そして、自分自身の死。若くて遠くにある時には自分で近づきたくなるかもしれない死だが、身近にあると感じられれば、自分からそこに飛び込む必要はなくなる。そう思う。
そういえば、私は死にたいと思ったことがない。どんなにつらいことがあっても、悲しいことがあっても、死ぬくらいならなんとか乗り越えられる気がしていた。死ぬつもりになれば、何でもなんとか我慢できそうに思っていた。たぶん、中学生の時、母が重病になって、いつ死ぬかわからない、あした死ぬかも、と思って生きてきたからじゃないか。その母は、90歳になって、父より長生きしている。まあ、ありがたいことだ。
五十代で、大学時代の友達が病死した。いっぱい話して、いっぱい同じ時間を過ごした友だちだ。もう少し時間が出来たら手紙を書こう、メールしよう、話をしようと思っていたら、死なれてしまった。彼女のことは、いまだに後悔している。というか、生きているうちに会わないとだめだ、話さないとだめだ、とつくづくわからされた。だから、友達に会いたければ、無理してでも会おうと思う。頑張って話そうと思う。彼女には、それを教えてもらった。
そんなことを考えながら読んだ本だった。